オリジナルの本の製本に加え、持ち込んだ本の修理にも対応してくれる工房がある。本は「物」であると同時に、持ち主の思いが宿り、時にはその人にとってよりどころにもなる。どんな人が、どんな思いでこの工房の扉をたたくのだろうか——。
製本の技術は、もともとヨーロッパの伝統文化だった。
東京・水道橋駅を出ると、東京ドームシティのくらくらするような高さから下降するパラシュート型のアトラクションやジェットコースターから歓声が聞こえてくる。「製本工房リーブル」は、そんなレジャースポットからすぐ近く。年季の入ったビルの中にある。
扉を開けると、表の賑やかさと反して、静寂が広がっていた。部屋いっぱいに紙類や革類といった素材や道具類がひしめいている。ここは、幾憶もの文字が連なる頁を編み、ときにボロボロになってしまった書籍に息吹を吹き込む、本が生まれ変わる場所なのだ。
出迎えてくれたのは、製本家であり室長を務める岡野暢夫さんだ。岡野さんは物珍しそうに工房内を見回す取材チームにこう教えてくれた。
「製本はそもそもヨーロッパの伝統文化なんです。中世の貴族たちは製本の職人を抱えて革装丁の本に仕立て、金箔の装飾を施したり表紙に紋章を入れたりして、オリジナルの本をつくっていました。対して日本では、明治の初期に洋式製本術が導入されたものの手製本の文化は根付かず、製本工芸として興味をもたれたのは40年ほど前からです」
「製本」という工芸が知られるようになってから、自分でオリジナルの本を作ってみたい人、お気に入りの本の表紙を革や布で装丁してみたい人。そういった人の需要から、都内数カ所で製本教室が開催されるようになった。当時、製本資材卸会社の営業マンだった岡野さんは、教室の講師を経て、独学で経験を積み重ねた。そして、勤め先の手製本部門として1980年に「製本工房リーブル」を開いた。
大事なのはカウンセリング。手を尽くす医者の気持ちで修理に臨む。
製本道具・材料販売、製本教室、受注製本。これが従来の「リーブル」経営の基本の三本柱だ。ところが、ここ数年は修理の依頼が圧倒的に増えているという。
岡野さんによると、本の状態は一冊ごとに異なり多岐にわたるため、さまざまな修理方法を知っておかなければ対応できない。そして、決して電話やメールだけでは修理を受けることはできないとも。
「修理には実物の本を前にしたカウンセリングが必要です。どう壊れているかの確認も大事ですが、それ以上に、どう直したいのかが重要なんです。形さえ整っていればいいのか、この先も繰り返し使っていきたいのか。それによって修理方法もかかる費用も大きく変わってきます」
例えるなら、家の修理に似ていると言う。多少ギシギシ床や壁がなっても、雨風がしのげて建物として損壊しなければ問題ないのか。あるいは、この先何十年も住むことを踏まえて、すべてを一度解体して土台からつくり直す必要があるのか。
本も同じで、土台からとなると、一度すべての頁をばらして、手作業で綴じ直していかなければならないのだ。
それによって、修理費が2,000円くらいで済む場合もあれば、数万円以上になることもある。ちなみにこれまでで一番手がかかったものは、約10カ月の月日を要し、費用は60万円余である。
「イタリアから来日された方で、家に伝わる15世紀の書物、全1,000頁のものを持ち込まれました。世界に数冊しかない本です。各頁の汚れを洗浄し、破れたり欠けてしまったりした部分を和紙で補正し、表紙を総革装に仕立てました。その手間と時間を考えると、60万円では安すぎたかもしれません。依頼者の方はとても喜んでくださいました」
互いの意思の相違がなく、依頼者の感謝を生んだのも、修理前のカウンセリングがあったからこそだ。
「カウンセリングだけで1時間かかることもあります。できるだけ詳しく希望を聞き、自分の本を修繕する気持ちで、手を抜かず素材選びから考えることが大事です。病気の患者さんにできるだけの手を尽くす、お医者さんの心持ちに似ているかもしれません」
思い出の絵本や辞書に聖書。人生と共にある本を蘇らせる。
買うよりも高いお金をかけて本の修理を依頼する——。どんな客がどんな本を携えてやってくるのか?
「辞書や図鑑、聖書や仏教書、子どもの頃から大事にしている絵本や故人の形見の本など、ご依頼もさまざまです。例えば辞書や聖書は、余白という余白に隙間がないほどにびっしり書き込みをしてあるものが多いんです。新しいものを買っても同じ書き込みはできません。それで新品の何倍ものお金をかけてでも修理をしたいという声をいただきます。また、幼少期から大事にしていた絵本を、自分の子どもにも読ませたい。亡き母の本をこの先も大事にしていきたい、といったそれぞれの思いを抱えていらっしゃいます」
ひとことで修理と言っても、その手法を聞いているだけで、気の遠くなるような手間と時間がかかる。さらに、岡野さんの技は極めて丁寧だ。仮に今、依頼をしたとしても、完成は1年以上先。2021年11月現在、岡野さんが取り掛かっているのは、2020年の春頃に受注したものだ。
「修理の仕事は、修理が終わればお返しするものです。いくら心を込めて修理をしても、その本が手元に残ることはありません。お納めする時は、娘を嫁に出すような気持ちです(笑)」
過去には弟子になりたいと志願する者もいたが、岡野さんはすべて断ってきた。「労と収入が見合わず、商売として成り立たせるのは難しい」という理由からだ。
労が多く割に合わない仕事かもしれない。それでも、岡野さんが続けるのは、依頼を受けたすべての客が喜ぶ姿を見たいからだ。
そしてこう締めくくった。
「心から喜んでくださる方がいるから、モチベーションにつながっています。修理と言っても、手かがりをせず、機械で断裁してボンドで固めてしまうような大雑把な手法もあります。ただ、その手法では修理をするはずが、逆に本を再生不可能なほど傷めてしまう可能性もあります。それは、私の本意ではありません。仮にもし、ここで私が仕事を辞めたら、製本修理の分野は少し寂しくなってしまうかもしれませんね」
依頼主の気持ちが溢れるお礼。「子どもたちに残せる宝物となりました」
最後に、実際に修理を依頼した方たちの声を記しておこう。
ハンデのある孫が熱中する昆虫図鑑を誕生日に間に合うよう直していただきました
小学2年生になる孫は、幼少期より発達障害の指摘を受けて、カウンセリング等を受けておりました。昨年夏、母親が買った昆虫図鑑『講談社 動く図鑑 move 昆虫』がかなりお気に入りで(もともと昆虫好き)、母親の実家の山形に帰省するときもリュックに詰めていくほど。
どこに行くにも持ち歩いた結果、表紙はおろか、中身の頁もはずれ、「私にバーバ、これ直せる?」と聞いてきます。孫のこだわりは強く、新しい本の購入の提案も受け入れません。とても素人では直せるものではなく、リーブルさんにお願いしました。
依頼時、完成まで1年待ち、という状況でしたが、孫の話をしたところ急いでくださり、8月中旬にご依頼し10月22日の孫の誕生日に間に合うように完成させて下さいました。
出来栄えは驚くほどきれいで、持ち歩くことが多いことも考慮し、通常より太い糸で綴って下さいました。大満足で、孫も「大事にします」と約束しています。
(N.K.さん)
幼い頃から大事にする文学全集が蘇りました
私が修理をお願いしたのは、少年文学全集『こがね丸』です。幼い頃に読んでもらった大切な本がきちんとその当時のままに蘇り、私の子どもたちにも残せる宝物となりました。
(M.S.さん)
息子が生まれてから3年分の「育児日記」を修理してもらいました
依頼したのは、息子が生まれてから手書きで毎日3年間書き留めた育児日記です。30年近く経ち、表紙、裏表紙、背表紙ともにボロボロでシミだらけでした。それをきれいに元の状態に近くなるように修理・製本していただきました。しわだらけだった中身の頁もきちんとアイロンをかけたように整っていました。
この息子が結婚し、孫が生まれたことは、感無量です。修理前の育児日記は、人様に見せることが憚れましたが、一人でゆっくりと読み直しました。その中には初めて母となった私と息子の輝いていた時間が詰まっていました。この日記は、72歳の私の人生の宝物です。これからも時折見て、笑顔になることでしょう。大切な宝物を蘇らせていただき感謝しております。
(M.N.さん)
中古本が、修理を経て新品のように生まれ変わりました
「原色魚類大図鑑」(北隆館)という、およそ1,000頁ある図鑑の修理をお願いしました。定価は5万円弱。私が20年程前に中古で手に入れたものです。最近、子どもがこの図鑑に興味を持ったのですが、背表紙と紙が剥がれてきていたので、修理をお願いしました。きれい、かつ、丈夫に直していただいたので、安心して子供に読ませることができます。
(T.O.さん)
【取材先紹介】
製本工房リーブル
東京都文京区本郷1-4-7協和ビル3F
電話 03-3814-6069
http://riiburu.com/
取材・文/沼 由美子
ライター、編集者。神奈川生まれ、東京住まい。10年の会社員生活を経て転身。醸造酒、蒸留酒ともに愛しており、バー巡りがライフワーク。とくに日本のバー文化の黎明期を支えてきた“おじいさんバーテンダー”にシビれる。著書に『オンナひとり、ときどきふたり飲み』(交通新聞社)、取材・執筆に『日本全国 ご飯のとも お米マイスター推薦の100品』(リトルモア)、『読本 本格焼酎。』『神林先生の浅草案内(未完)』(ともにプレジデント社)などがある。
撮影/高橋敬大(TABLEROCK)