「この靴は……そうだねぇ……」とつぶやくと、水拭きで優しくほこりを落としていく。これが名だたる企業の役員や著名人にもファンを持つ靴磨き専門店「千葉スペシャル」創業者・千葉尊さんのスタイル。靴を一瞥して状態を見極めたら、あっという間に靴を輝かせてしまう。
その見事な職人技と、「ここで磨いた靴を履くと運気が上がる」という口コミが広がり、戸外での作業ながら行列ができることもしばしば。独自の手法を編み出した千葉さんが提唱する靴磨きには、名前に見合う「スペシャル」なポイントがたくさん散りばめられていた。
転々とする職の中で身に付けた「身の回りをきれいに保つ」という考え方
千葉さんが靴磨き職人になったのは40歳を過ぎてから。そこに至るまでの職歴は多彩です。職業訓練校を卒業後に電気工事士、農業、材木業、溶接工、製缶工、鍛冶鳶、足場鳶を経験し、一時期はパチンコで食べていたこともあったといいます。一見、靴磨きと遠い職種のように感じられる数々の経験の中で、現在の「千葉スペシャル」の靴磨きに通じるヒントがありました。
「製缶工の時、パイプを加工すると『バリ』という余分な突起ができてしまうのですが、それを手早く取って、きちっと磨くことを頑張りました。だって、早くピカピカにして本数を稼がないと効率が悪いから。いかに製品を傷めず早くきれいにするか、ということを常に考えてきました。
思えば、発電所をはじめ、いろいろな工事・作業現場で働いたけれど、どこも掃除がきちっとできないとダメなんだよね。散らかっていたら作業効率も悪いし、危ないから。でも、掃除ができない人が多い。そのとき思ったね、『掃除をしない・できない人が増える時代が来るんだなぁ』って」
製品の質を上げるために丁寧に磨く。そのためには手際良い作業が求められ、作業しやすい環境が必要ということ。この考えが「千葉スペシャル」の靴磨きの根底にあります。
千葉さんの人生を変えた“靴磨き”との出合い
製缶工をしていた姫路から東京に拠点を移し、次の職を探していた千葉さん。当時41歳。ある日、上野公園で転機を迎えました。
「昼寝をしていたら男の人に声を掛けられてね、『靴磨きをやってみないか?』って。この人が師匠なんだけど、師匠はお客さんが足を乗せる『足台』が欲しかったようで、何となく俺が作ってくれそうに見えた、という理由だけで声を掛けたらしい。その時、なぜか『俺の時代が来た!』と思ったね」
靴磨きにチャンスを感じた千葉さん。師匠に長年付いて磨きの技術を学んだのかと思いきや意外な答えが返ってきました。
「師匠と一緒にいたのは3日間だけ。磨いた分が稼ぎになる、数を稼いでナンボの商売だから、師匠は客を独り占めするために俺を追い出したの。まぁ、手順が分かればなんとかなると思ったから、そのまま一人で靴磨きを始めました」
人生どこにチャンスが転がっていて、何がきっかけになるかわかりません。その後、千葉さんは今まで感じていた「身の回りを整え、清めることの大切さ」を靴磨きという形で追求し始めました。
従来の方法に疑問を感じ、自分なりの答えを見つける
靴磨きを始めてすぐ、千葉さんは「磨きの良し悪し」を把握し、今までの経験で培った掃除の技術と根っからの探究心を生かして独自の靴磨きメソッドを確立していきました。
「俺が靴磨きを始めた頃、周りにいた靴磨きの連中は、クリームをベタベタつけて磨いていました。俺も一生懸命お客さんの靴を磨いたけれど、どういう訳かすぐにクリームが剥がれちゃってね。なぜこうなるのか、随分考えました。
そのうち『靴は社会が汚している』と思った。これは今の時代もそうだけれど、世の中にある靴磨きや手入れの商品は靴を傷めるものばかり。靴も大量生産品は、もともと革に油が薄く塗ってあって膜を作っているから、クリームが剥がれやすくなっている。そう思ったから俺は、磨いたら数カ月はツヤが残る“本来あるべき靴磨き”を考えたの。でも、やって来るお客さんは、自分は正しい方法で手入れをしていると思っているじゃない。そこを『違いますよ』って教えても聞いてくれない。それどころか、何度もトラブルになって。だから、俺のやり方で靴をピカピカに磨いて、ツヤを出して、そのツヤを長持ちさせるってことを実践で証明しているの」
千葉さんは9カ月間、市販のクリームを調査し、およそ3年かけて革を柔らかくする独自のクリームを開発。現状に疑問を抱き、本来の靴磨きとは何かを考え、自分の経験から導いた答えを実践する。その探究心には目を見張るものがあります。
「掃除には水が基本でしょ?」
千葉さんの靴磨きで驚くのは水を使うということ。「革靴に水拭き」とはご法度のように思われますが、実はとても理にかなったことでした。
「みんな『革に水はいけない』って思っているけれど、それは一部分であって全体的には水が必要不可欠。『掃除に必要なのは水!』って決まっているんです。水拭きには2種類必要で、汚れを取るためには湿った布、ツヤを出すためには堅く絞った布を使うといい。“湿った布”と言っても、ただ絞るだけでは湿り方にバラつきが出るから、一定になるよう9分以上脱水をかけた布を使っています。この『湿り方が一定』というのが重要で、湿りすぎいても乾きすぎていてもいけない。お客さんにも磨いた靴が汚れたら『洗濯機で洗った直後の布で拭いてください』って勧めています。洗った布だから汚れもないし、それで拭くとツヤが保てるから。
清潔、清掃の“清”や、洗濯の“洗”ってサンズイでしょ。これは『きれいな水で洗いなさい』ってこと。水で洗うことが大事なんです。これが掃除の基本中の基本。つまり、水で掃除しなさいってこと。今の時代の掃除はそれが忘れ去られているんです」
身の回りのちりやほこりを払い清め、整え、きれいな状態にすることが大切であることを再認識させられます。
「『革に水はダメ』と間違えてインプットしてしまっているのは、元のマニュアルが原因。そういった一般的な情報は小売店に回す“商品を売るための情報”で、“商品を生かすための情報”じゃない。だから、その通りやってはいけない」
世の中に流布しているものを鵜呑みにせず、一度疑ってみる。靴磨きに限らず、さまざまなことに通じる考え方です。
千葉哲学に、哲学を持つ経営者が呼応する
今までの経験を生かして独自の靴磨きメソッドを編み出した千葉さん。「俺は情報の整理をしただけ」と言いますが、千葉さんの哲学のある靴磨きは、多くの企業経営者を引きつけています。
「いろいろな情報を全部まともに受け取って、なんでもそのままやっていたら疲弊してしまう。必ず少しずつ無駄なものが溜まっていくから。靴の汚れもそう。今の人たちの靴の汚れ方を見ていると、自分で少しずつ汚れを溜め込んでいる。水を使わないからかえって乾燥して汚れやすく、傷みやすくなっているんです。だから、うちでは乾燥しにくいクリームを塗って、お客さんに『水拭きで柔らかい状態を保ってくださいね』と言っているの。水拭きでほこりだけ取って大事に履けば、そのツヤは半年〜1年は持続する。1,300円で半年。これがね、社長さんの間で広まったんです」
「社長さんはものの見方が違うから。水拭きすることに疑問を持っても、『この職人はなんでそんなことをするのだろう……』って、自分で考えるからね。それに、磨きに時間をかけられない人たちだから、さっと一拭きできれいに、しかもツヤが長持ちする状態の方が効率いいでしょ。だから繰り返し通ってくれるんです。それに“靴を大事にする”ということは、“人を大事にする”ことに通じます。靴を大事にしない人は人も大事にできません」
人も靴も丁寧に扱う。心や物事に対する姿勢がそのまま足元に、人間関係に表れるということを再認識させられます。また、千葉さんは、良い靴を履き、大事にする人に運が向いてくると話します。
「ある程度高額で良い靴と大量生産の靴、どちらを履くかで違ってくるのは『入ってくる情報が違う』ということ。大量生産の靴は、早く次の靴を買ってもらうために、表向きは『大事に履いてくださいね』と言いながらすぐに靴をダメにするケア製品がプレゼントされるの。でも、良い靴にはそんなプレゼントはない。その代わり、その靴を長く履いてもらうための手入れ方法やソールが交換できるというような有益な情報を教えてくれる。靴の情報だけじゃない。良い靴を履いて、ちゃんと手入れすることで、仕事や人間関係に役立つ良い情報が必ず入ってくるものなのです」
良い状態を継続する。それが人としての成功の秘訣
「千葉スペシャル」には現在、若手の靴磨き職人も所属し、プロフェッショナル集団としてどんどん厚みを増しています。そんな若い職人に千葉さんが伝えていることは基本的なことでした。
「最初に私が教えることは『すべての水回りをきれいにすること』。石鹸を使わず、洗濯・脱水した布で拭くことで汚れが取れやすく、次の汚れがつかないようになることを教えています。汚れるのは当然。ただ、その汚れは取れやすくないといけない。汚れを取るのに時間がかかったら意味がないんです。
あとは『継続すること』。人付き合いもそうだし、周りをきれいにすることもそう。良い状態を継続しなければダメ。良い人材を求めるなら、身の回りも心も良い状態を継続していかないと望む人材はやってこない。社員教育で靴磨きを行っている会社も多いみたいですよ。靴を磨くことはさまざまなことを磨くことにつながるから。『足元が見られる』とは、そういうことなのです」
最も基本的で普遍的な成功の法則。それを独自の靴磨きを通して広めている千葉さん。
「まぁ、俺がこう思うようになったきっかけは、そもそも掃除嫌いだったから。それで次の汚れが付かないためにどうすればいいかって考えるわけ。掃除の回数だって少ない方が良いし、きれいな状態ができるだけ長く続いてほしい。しょっちゅう汚れるとなったらすぐ掃除しなくちゃならないから……、掃除嫌いは絶対それをやりたくないの」
目から鱗が落ちる、でも納得の理論の根底にあったのは、なんとも素直な思いでした。
取材先紹介
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- 取材・文別役ちひろ
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コピーライター、ライター、編集者。東京生まれ。まち歩きフリーペーパー制作に長年携わる。旅や食、建築にまつわる執筆が多く、銭湯のフリーペーパーで10年以上執筆している。特にキリスト教会の建築・美術の愛好家で、24都道府県・約800軒の教会を訪ね歩いている。
Instagram: c.betchaku - 写真新谷敏司