世界を魅了するパティシエ・五十嵐 宏さんが東京・亀有の「神社」に出店した理由

東京のJR亀有駅から徒歩約5分。環七通りに面して鎮座する亀有香取神社の大きな石鳥居の横に「パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ」があります。オーナーシェフ・五十嵐 宏さんは洋菓子界のワールドカップと呼ばれる「クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー」や「ワールドペストリーチームチャンピオンシップ」の二つの大会で名を馳せた国際的なパティシエ。店は近隣のみならず、遠方から足を運ぶスイーツ好きで連日大盛況です。

出店場所が地域の崇敬を集める神社の境内というとてもユニークな選択ですが、そこにどんな狙いがあったのか。亀有香取神社の宮司・唐松範夫さんとともに、出店までの経緯や地域への貢献について話を伺いました。

「50年後を考えて、“新しい神社”にしようと思いました」(唐松さん)

ーーお二人の出会いを教えてください。

唐松範夫さん(以下、唐松さん):金町にあるシェフ(五十嵐さん)のお店の客として通ったのが始まりです。シェフはどのお客さんにも気さくに話しかけるのですが、僕のガッチリした体型をきっかけに、「あれ、何か(スポーツ)やってるの?」と声をかけてくれました。

五十嵐 宏さん(以下、五十嵐さん):こんなガタイのいい人が来たら目立つよ! プロレスラーが来たのか? って思ったしね(笑)。

五十嵐 宏さん。「コロンバン」在職中、国際ジュニア製菓技術者コンクールで2位を獲得。当時は皇室のデザートも担当。その後渡仏し、ブルターニュ地方のパティスリーで修業。帰国後、フランス・リヨンで行われる権威ある洋菓子の国際コンクール「クープ・デュ・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー世界大会」に出場し、2001年、準優勝を収める。2010年、アメリカで行われる国際コンクール「ワールドペストリーチームチャンピオンシップ」で念願の優勝を果たす。国内では「ホテル西洋銀座」「六本木ヒルズクラブ」「マンダリンオリエンタル東京」の製菓長を歴任。2012年、葛飾区金町に自店「パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ」をオープン。6年後の2018年に亀有香取神社の境内に移転した。愛妻家で、お酒は一滴も飲めないという一面も

「ワールドペストリーチームチャンピオンシップ」優勝の決め手となった五十嵐さんのスペシャリテ「ピクシー」588円(税込)。ピスタチオクリームの中にラズベリーのジュレが入っている

唐松さん:それで交流が始まり、ある年の年末、焼菓子の詰め合わせをお願いした時に初めて亀有香取神社の宮司であることを明かしたんです。でも、そのときは、まだ店主と客の関係でした。

唐松範夫さん。父である先代の急逝により、20代後半にして亀有香取神社の宮司に就任。若かりし頃はプロレスラーを目指していたそう。亀有香取神社は、1276年、千葉にある本宮・香取神宮より御霊を勧請し、2016年に亀有鎮座740年を迎えた。これを機に、奉祝記念事業として「平成の大整備事業」を計画。社務所・境内の一大リニューアルを行い、2018年末に完成した

――境内への出店は唐松さんのアイデアとお聞きしています。そこにはどんな思いがありましたか?

唐松さん:当時は、神社創建740年を前に、「これからの神社の形」というものを模索していました。そこで考えたことは、参拝が目的でも、その前にいろいろなものを見て、目で豊かになって、食べて豊かになって、最後に参拝というのが理想だなと。江戸時代の伊勢詣もそうだと思うんですが、非現実的なところで心を豊かにしてから参拝して、お祈りして帰る。そんなパッケージをつくりたいと考えました。この神社は亀有駅から見ると、ショッピングモールの「アリオ亀有」の手前にあります。アリオに行く前にここに滞在し、非日常的な空間で和やかな気持ちになってもらえたらと。

あと、もう一点。恥ずかしいのですが、当時、私を叱ってくれる人がいなかったもので。当時は今ほどシェフと深いつながりはありませんでしたが、金町の店でお客さんやスタッフへの思いやりや真摯な姿を見て、意識の高さに驚きました。そんな人と身近な場所で仕事ができれば、僕自身の成長につながるのではないか、と思ったんです。

亀有香取神社の本殿。「何事にも打ち勝つ、除災招福開運厄除の神様」「スポーツの神様」として知られている

――具体的には、どのように神社を変えていこうと考えたのですか?

唐松さん:地域が盛り上がれば、地域が潤います。いわゆる利益を出すとか、経済的に豊かになることもそうですが、僕としては、複合商業施設や商店街、氏子さん、いろいろな人を「つなげる場=神社」という存在にしたい。それで、境内にお店を出してみてどうかと思ったんです。これが短期的な目標でした。

長期的には、今までの伝統を守りつつ維持できるような神社にしたいと考えました。というのは、情報化社会の成熟や新型コロナウイルスが猛威を振るう世の中になって身に染みたのですが、時代として神社の存在意義が薄れつつあるのではないか、という素朴な疑問があります。神頼みはあるかもしれないけれど、神社がなくても生活に困る人は少ない。こうした状況で、50年後、神社は残らないんじゃないかと。そうであるならば、神社がブランド力を付けることで、50年後も参拝やお参り、年間行事や御守りの頒布が残っていてほしいと思いました。

――五十嵐さんはまだ金町に自店を出店されて数年という頃でしたが、すでに移転を考えていたのですか?

五十嵐さん:お客さまから「ケーキを食べて帰りたい」というリクエストが多くなって、カフェの併設を考えるようになったんだよ。自分が想像していたよりも商圏が広くなって、製造量も増えて……。だから、常に建物を見たら移転先にどうかって考えていた。でも、「これ!」ってビビッと感じるものがなかったんだよね。

――そういう思いを抱えているときに唐松さんからオファーがあったのですね。

五十嵐さん: そう。出会いとかきっかけって突然と現れるものなんだなと。2015年頃だったかな、彼(唐松さん)が新しく建てる神社の模型を自分の車に積んで話に来てくれたんだよ。話を聞いた時、面白いと思うのと同時にやっぱり不安もあった。金町の店の借金があるまま、こっちでまた借金しなくちゃいけないから。無理に移転しなくてもいいって気持ちもあったし。でも、俺は場所というより、彼に魅力を感じて。だって、いくら自分が好きな街や神社だからといってそんなことする? わざわざ突然、模型まで持ってくる人、いないよ!

唐松さん:今考えたら、間にどなたか入っていただいて交渉すべきだったんでしょうが、そんな人もなしに突然お伺いして、少しおかしな話ですよね(笑)。最初はケーキだけを持ってきて販売する形でもいいってお願いしたんです。でも、本音はシェフに来ていただきたいという気持ちでした。

五十嵐さん:やっぱり熱いんだよ。それで俺と同じ匂いがする部分があると思って。それは年上・年下とか、肩書きがどうとかではなく、同じ人間の男同士として、なんか感じたんだよね。

唐松さん:僕もそんな感覚です。神様からいただいた結びつき、ご縁というか。

五十嵐さん:あ、縁だね。本当にそうだね。それで金町の店は閉めようと思って。退路を絶たないと前を向けないな、っていうのもあったから。本気でやるんだったら覚悟を決めないと。ありがたいことに、スタッフも俺と一緒に新天地でやりたいって言ってくれたし。そういった覚悟を決めるに値した「事業」と「人」と「シチュエーション」だったってこと。

「賑わいやつながりをより感じられる場所になってきたんじゃないかな」(五十嵐さん)

――「境内にパティスリーがある神社の街」として、亀有は一時話題になりましたね。

唐松さん:多くのメディアで取り上げていただきましたね。とてもありがたいことです。

五十嵐さん:「地域に貢献する方法論」っていうのがあって、いろいろな形で貢献ができると思うんだよね。利益的な貢献が全てではなく、「精神的な貢献」っていうのもあると思う。例えば、ケーキ買って「おいしかった」っていうのも貢献だと思う。なら、貢献できるようなケーキを作るべきだと思う。だからここで「おいしいケーキを販売する」というハッピーな状況をつくったことも、地域に対する貢献だと思うんだよね。

「パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ」外観。境内に向かった北側はガラス張りで開放感を演出している

――実際、出店して地域の「変化」は感じましたか?

五十嵐さん:出店を決める前、本当にここ(神社)で勝負するかをジャッジするため、何度か夕方に以前の社務所の縁側に座って、音や空気感を味わったんだよね。やっぱり夕暮れになるとすごく寂しかったし、物悲しい雰囲気があった。真っ暗になると怖かったしね。だから、ノリさん(唐松さん)が境内の在り方を整理して、広く居心地よくしたのはすごいと思うよ。今は夕方や夜になっても明かりがある。店はスケルトンにしたから、中で人が動いている雰囲気も分かって活気が出てきた。

唐松さん:店を外に向けてスケルトンにしただけでなく、販売とキッチンの間もガラス張りのスケルトンだから、足元まで全て見られるじゃないですか。あそこまで見られるって精神的にも疲れるんじゃないか、って思うんですよね。

ショーケースにはずらりと約40〜50種類のケーキが並ぶ。ほか、焼菓子の販売もある

店内のカフェスペース。奥ではケーキが出来上がる様子をライブ感覚で見ることができる

五十嵐さん:だって、中華料理屋とかで厨房を見ない? 俺は見ちゃうけど。スケルトンにするのはある意味、お客さまに対しての「保証書」だから。こういうところで、こういう人間が、こういう風に作っている、ということを示さないと。それに、来る時間によって匂いや音や作業風景が違うっていうのも店の売りの一つだから。汚い格好ではできないし、ずるいこともできない。ずるいことをしないための抑止力でもあるわけ。

「これから先のことも話すようになりましたね」(唐松さん)

――神社の境内にパティスリーができて4年目。現在はどのように感じていますか?

五十嵐さん:僕らが思い描いているビジョンなんて、風にさらされれば簡単に揺らいでしまう。ただ、その灯火っていうものを絶対消さないようにすれば、いつかは落ち着いていくからさ。燃やし続けることが大切だよね。重要なのは、そんな話ができる人がいるか。そういう縁を大切にできる神社であることに意味があると思うよ。

唐松さん:この神社を建て直そうと動いた当時は、ここをランドマーク化してみんなに賑やかになってもらいたい、という気持ちがありました。だけど、シェフが言うように、日々状況は変わる。僕らも年を取るし、いろいろな経験もするし、そんな中で新型コロナウイルスが流行してしまった。だから、今はそんなおこがましいことは考えていなくて、シェフと共に、まず自分の足元をしっかり固めて、次は何を見せていくかという話をしますね。シェフはセンスと努力の塊で僕にないものを全て持っているから、いろいろと相談できます。

世界大会で獲得したメダルなどが店内の至るところに飾られている。「メダルはどんどん触っていいよ。だってパティシエ目指している子とか触りたいでしょ!」と五十嵐さん

五十嵐さん:ノリさんも俺の知らないことを知っている。俺は、神社という場所で出店するからには、何でも言う通りにやらなきゃいけない、って思い込んでいたところがあって。でも、いろいろな人がいるじゃない。そんな話をしたら「全てのお客さんの言うことを聞く必要はないです」って。「一社の故実」って言葉を教えてくれたんだよ。

唐松さん:「ルールはその神社の中で決められる」というものがあるんですよ。

五十嵐さん:「うちはこのルールだから、嫌だったら他所に行ってください」というか。それを聞いた時「八方美人になる必要はないし、少しはエゴイズムを出してもいいのかな」って、肩の力が抜けたんだよね。

「こういう場所(神社)は、なくてはならないものだと思うよ」(五十嵐さん)

――改めて、「神社」とはどういう場所だと思いますか?

五十嵐さん:俺は朝早くから準備で来るけど、いろいろな人がお参りに来ている。こういった場所がある、ってことにやっぱり意味があると思うんだよ。

唐松さん:それが失われつつあるので、取っ掛かりとして、ケーキを求めて来る人が境内に足を踏み入れることが、結果として神社の次につながるんじゃないかと。これが、次の世代へのアプローチだと思いますね。

――神社に足を踏み入れるきっかけですね。

五十嵐さん:なんか神社に対する捉え方が、俺もここ3年くらいで変わったと思う。神社って特殊なものじゃなく、もっと近くにあるものだと思う。かしこまるものではなくて。

――回り回って「信仰」ということにつながるのかもしれませんね。

唐松さん:そう。神社とは「伝統文化」と近いところがありますので。ご飯を食べるときに手を合わせるといった日本人の習性・習慣的なものがあるじゃないですか。同じように根付いたものなので、特に教えることもありませんし、自然とお祈りする場です。ケーキを買いに来て、ついでだから手を合わせようでいいんです。それで回り回って、この街が良くなっていけば、それは信仰になります。

五十嵐さん:手を合わせる行為だよね。素敵なジェスチャーだと思うよ。合掌っていうのは。

唐松さん:結局、人間なんですよ。シェフも人間を見てくれますから。人間味のある人間が集まる、そんな神社にしたい。神社(神道)は昔、人間が、自分たちが安心するため、安らぎのためにつくったわけじゃないですか。やっぱり人間あってこそだと思うので、人間がいる場をつくりたい。それが全て。そうすることで、いろいろなご縁ができますから。

取材先紹介

亀有香取神社

東京都葛飾区亀有3-42-24
電話:03-3601-1418

パティスリー ラ・ローズ・ジャポネ

東京都葛飾区亀有3-42-24 亀有香取神社境内
電話:03-5876-9759

 
取材・文別役 ちひろ

コピーライター、ライター、編集者。東京生まれ。まち歩きフリーペーパー制作に長年携わる。旅や食、建築にまつわる執筆が多く、銭湯のフリーペーパーで10年以上執筆している。特にキリスト教会の建築・美術の愛好家で、24都道府県・約800軒の教会を訪ね歩いている。

写真新谷敏司