一人を喜ばせる工夫が突破口に。大島のサグラダ・ファミリア「デイリーヤマザキ新潟大島店」の逆転劇

新潟県大島の信濃川沿いに広々とした駐車場を備えた「デイリーヤマザキ 新潟大島店」。店内を彩る80年代グッズや愉快なポップがSNSで話題となり、この店舗をめがけて全国から “観光客”が訪れる激レアなコンビニです。

オーナーの坂口正之さんいわく、「まちづくりをしている」という店内の“一等地”は、まるでレトロな「駄菓子屋さん」。“ランドマーク”である名物のあんぱんが並ぶ「大島ベーカリー」、懐かしい看板がディスプレーされ、つり革がぶらさがる山手線コーナーなど、心温まる空間が広がります。ポイントは、段ボールやガムテープを駆使したザ・工作感です。

仮にもチェーンのコンビニなのに自由すぎるのでは……。素朴な疑問を抱きつつ、開店時から現在の営業形態に至るまでの道のりを聞いてみました。

誰もが二の足を踏む立地。実は「オセロの角」のような好立地だった!?

――コンビニにして唯一無二の個性を放つ「デイリーヤマザキ 新潟大島店」ですが、開店のきっかけは?

僕は新潟の佐渡島出身で、19歳の時に上京したんですが、最初にアルバイトしたのが「デイリーヤマザキ」なんです。そこから契約社員を経て正社員になり、14年間、主に東日本エリアの直営店で働いていました。もともと独立志望だったんですが、たまたま加盟店の出店予定地でオーナーさんがなかなか見つからないところがあると、社内で僕に話が回ってきたんです。それが、新潟市中央区大島にあるこの場所でした。

「デイリー山崎 新潟大島店」のオーナー坂口さん。80年代当時の自身のポートレートもさりげなくディスプレーの中に

――なんと……!10代から「デイリーヤマザキ」一直線とは。アルバイトから社員になる人も限られているように感じますが、さらにそこから独立して加盟店の経営者になるのは、かなり異例では?

創業以来、僕が第一号でした。同僚や先輩には、「大丈夫か?」と心配されました。社員時代は月給制だったので月々、会社側から決まったお給料をいただけましたが、加盟店で働く際には何の保障もありません。コンビニのオーナーで成功するのは茨の道というのは、みんな分かっていますから。おまけに2005年当時、この辺りは田んぼと数軒の家しかなく、目の前は一本道と信濃川。明らかに商圏は狭く、誰もが二の足を踏んでしまう立地だったんです。

――それでも決意された理由は?

そもそもコンビニとは、「またあそこにできた」というよりも、「ようやくここにできた」という存在であるべきだと、尊敬する開発担当の上司に言われたんです。また、目の前が川ということは、競合を意識するのは片面だけでいいということになりますよね。つまり、オセロでいうと角を取っている状態。近くに新しい小学校が建つことになっていたので、建設現場で働く人たちも来るだろうし、いずれ土地開発も始まり若い世代の家が建つから、立地的にも悪くはないだろうと考えました。もちろん、不安な気持ちが解消されたわけではなかったのですが、その時の上司の言葉には、妙に説得力がありましたね。

大きな空と信濃川。のどかな景色に溶け込む「オセロの角」(右手奥)がデイリーヤマザキ新潟大島店だ

――加盟店のオーナーになるには、資金も必要ですよね?

通常は加盟料や補償金、研修費用だけで数百万円かかるんですが、僕は社員だったので研修の必要もないし、諸費用はほぼ免除され、必要なのは商品の仕入れ代だけでした。退職金は出ますし、それならいけるかなと。本部としても、元社員ですから丁寧にフォローする必要がないというのは良かったと思います。

暗雲立ち込める中、運命を切り開いたのは「一人を喜ばせるための創意工夫」

――さいは投げられたわけですね。結果はいかに……?

見事に上司の読みが当たり、たくさんのお客さんが来てくれました。目の前の道は、新津から市内への通勤道路なんですが、それまでコンビニが一つもなかったので、まさに周辺住民にとっては「ようやくここにできた」場所だったのでしょう。でも、町がどんどん開発され、スーパーにドラッグストア、コンビニも2軒ほど出店してきました。オセロで言う逆側が、競合に攻められてきたわけです。そして開店から7年目の2012年、売り上げはがくんと落ち込みました。

――店舗開発は、競合との厳しい戦いの始まりでもあった、というわけですね。

毎日、あまりに暇で何をしていいか分からない。いくら掃除をしてもお客さんは来ない。その時ふと、普通に陳列していた駄菓子を、昔の駄菓子屋さん風にディスプレイしてみようと思ったんです。

――昔の駄菓子屋さん風……おもしろいですね。

はい、段ボールや色紙を使って漫画の「三丁目の夕日」みたいな雰囲気の建物をつくり、一番目立つ場所に設置しました。そしたら、ほぼ同世代の夜勤のスタッフさんが、すごく喜んでくれて。それがうれしくて、「次はこんなことをしたら喜ぶかな?」と思考を巡らしながら、店内のトイレを民家の玄関に見立て表札を付けたり、おすすめ商品に小さなポップを作ってみたり、ちょっとずつ工夫を始めたんです。最初は、ただ一人の夜勤さんを喜ばせたい一心でしたが、だんだんと店内に昭和レトロな手作りディスプレーが広がっていきました。

「夜勤さんの次の出勤日までに新作を完成させる」のがルーティンに。今でこそ、スーパーなどにちょうちんや屋台風オブジェの飾り付けがあるが、「当時はありませんでした。僕が最初と自負しています(笑)」と坂口さん

――こうして始まった昭和レトロな店づくりが、店の起死回生につながっていったのでしょうか?

それも、もちろんあったと思いますが、大きかったのは名物「大島あんぱん」が誕生したことでしょうか。きっかけは、暗中模索の中で訪れた、デイリーヤマザキが年に一度、加盟店向けに行う東京でのコンベンションでした。

――そのコンベンションとはどんなものですか?

来期に新しく登場する商品や店舗用の備品、器具が展示されるんです。そこに焼印を作る会社のブースがあり、当時、新商品として登場したあんぱんに「焼印を押してみませんか」と呼び込みをしてたんです。焼印は一つ、2、3万円もするので、誰も見向きもしない。だけど、僕のレトロ好きセンサーが反応し、「大島」で焼印を作ってもらうことにしたんです。そしたら「良かった〜。あなたが一人目です」と。

――コストをかけてでもあえて挑戦してみようと。その結果は?

あんぱんに焼印を押し始めたところ、それまで、1日12個売れるかどうかだったのに、30個売れるようになりました。お客さんから「大島あんぱんは、お土産に喜ばれるのよ」と聞いて、試しに4個入りのお土産用の箱を作ったら、それが爆発的にヒット。今は、毎日約200個売れています。

――突破口は何だったと?

売り上げに悩みながらも、展示会に足を運び、行動したことだと思います。そこで焼印を見つけたことが僕の中の起爆剤となって、あれもやってみよう、これも作ってみようと、アイデアをどんどん具現化できるようになりました。結果的に、自分が大好きなレトロな世界観を生かしたリスタートにつながりました。

大島あんぱんは、「デイリーベーカリー」がある全国の店舗で売られている「ホイップあんぱん」に「大島」の焼印を押したもの。現在は各地に“ご当地”あんぱんがあるが、この店はその先駆け

「これでいい」し、「これがいい」!奇想天外な店づくりのモットーとは

――こだわりの店内。ディスプレーのコンセプトはどのように考えていったのでしょうか。

僕はレトロが好きなので、80年代の懐かしいものやノスタルジーがテーマです。実家にあったラジカセやのれんを置いたり、古い雑誌の広告などを拡大コピーしてポスターにしたり。陳列棚の上段も、重要な「町づくり」のスペースです。お客さんには、あえて狭さを楽しんでもらい、宝探しをするような気分で買い物をしてもらえたらなと。

子どもの頃から乗り物や相撲、プロレスが好きだったという坂口さん。歌手では中森明菜ファンで、一番好きな曲は「十戒」だそう

――店内を飾り付けたり、レトログッズを工作したりする時にこだわっていることは?

あえて、どのディスプレーも精密ではなくぼんやりと作ることを心掛けています。わざと段ボールやガムテープを露出させて、良い加減のところで終わる。「この人、ちゃんと作ろうとしてないな」と思われたらツッコまれることもないし、僕の負担にもなりません。「こういうの、昔あったあった」と笑ってもらえるだけ。うちの店の社訓は、「まじめにふざけ、ふざけてまじめ」ですから。

一番のお気に入りは、歌番組「ザ・ベストテン」のコーナー。山手線車内をイメージした通路には中吊りとスペースシャトル(?)も。

――ぼんやりとしているのに、心に届く作品の数々。子どもの時から物作りが好きでしたか?

特には(笑)。ただ、小学校の自由研究で、容量250ml缶に白い紙を巻いて、当時好きだった潜水艦「しんかい2000」の絵を描き、ストローを挿したものを提出したんですよ。そしたら、「こんなの自由研究じゃない」っていう人もいたけど、「斬新だ!」って評価してくれる人もいて。その時、自分の中に「これでいいんだ」という確信めいた基準が生まれた気がします。完璧であることや精密さを求めることが、必ずしも正解ではないんですよね。いいあんばいのラインを探すところまでが重要で、僕はそのラインを見つけるのが結構得意なんです。それが今の経営にもつながっていると思います。

――ヒットにつながった“いいあんばい”があったら教えてください。

目玉焼き3つとベーコンをのせた「ベーコンエッグ丼」です。こんなの家で作ればいいじゃんって普通は思いますよね。でも、僕にとっては「これでいい」し、むしろ「これがいい」。あえて漬物をのせたり彩りを加えたりしないのが、僕にとってのいいあんばいなんです。店内のディスプレーもそうですけど、根っこにあるのは、自分が好きなもの、食べたいもの、やってみたいこと。例えば、うずらを大人食いしたい!とか、たこ焼きを串刺しで食べたい!パン釜で焼き芋焼いてみたい!とか。みなさんにも共感いただいているようで、どれもめちゃめちゃ人気です。

ヒットにつながった「ベーコンエッグ丼」と「うずら串」。多くの人にささるツボは、「自分が食べたいもの」であり、「あってもいいのに、なぜかないもの」。そこに気づき、形にするのが喜び

正直、自由すぎない!?「対等」な人間関係と絶妙なライン

――感動と同時に、少々不安になってきました(笑)。自由奔放な店づくりですが、加盟店のルールなどは大丈夫なのでしょうか……?

「本部は許してくれるの?」と、よく心配されます。あまり知られてないですが、本部と加盟店オーナーは、契約上は対等な立場なんです。看板代として、月々ロイヤリティーを払うことで、義務は果たしていますし、売り上げが多ければ、税金と同じで納める看板代も多くなります。対等な関係にあるからこそ、この店の経営が傾いても何の補償もないですし、最終的には良くも悪くも、すべて自己責任だと思っています。

――一般的に、多くの人が想像しがちな本部と加盟店の関係性とは少し違いそうですね。

そうですね。本部の商品の仕入れ内容も、強制と思われがちですけど、担当者との交渉次第。ただ加盟店は、本部から商品を仕入れないと売ることができませんから、共存共栄で、利益を得ようねという間柄です。大切なのは人間対人間の関係性ですよね。

――いい人間関係を保つために心掛けていることはありますか?

これ以上はやらない、踏み込まないという線引きはあります。僕は、もともと会社側にいた人間だから、何をしたら喜ばれるかも分かっています。例えば、苺大福を仕入れてほしいと言われたら、3個でいいところ、200個仕入れてちゃんと売り切ります。そういう信頼関係を見てくれる会社だと僕は思っています。なんて言うと、かえって息苦しく感じちゃう人もいるかもしれませんが(笑)。

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ゴールも目標もない。ただ進化し続ける「大島のサグラダ・ファミリア」

――経営も店づくりも良きあんばいのラインを見極めるのが鍵なのですね。話題のコンビニとなり、お客との交流も増えたのでは?

常連さんは景色に慣れすぎて、なんの反応もありません(笑)。県外からレトロマニアの方がいらっしゃいますが、「すごいですね!」「ありがとうございます」と言葉を交わすくらいです。お客さんがネットに上げた動画があると、従業員が教えてくれるんですよ。イチオシのコーナーを撮ってくれているとうれしいですねえ。でも、コメントしたりフォローしたりはしません。それが僕にとってのいいあんばいなのかな。

――今後の展望があったら教えてください。

スペインのサグラダ・ファミリアには終わりがないとされていましたよね。それと同じで、僕の「町づくり」にもゴールはないし、目指すものもありません。スクラップアンドビルドじゃないけど、オリジナルメニューも店の内装も、古くなったり人気がないものはやめて、常に新しいものを作り続けます。どんどん進化するのが僕の「デイリーヤマザキ」という町です。

――新潟のガウディ、これからも楽しみです。

取材先紹介

デイリーヤマザキ新潟大島店

 

取材・文さくらいよしえ
写真中村宗徳
企画編集株式会社 都恋堂