ここに来たら「ああ、帰ってきたな」と思う。『深夜食堂』作者・安倍夜郎さんの「通いたくなるお店」

安倍夜郎さん

人気漫画『深夜食堂』の作者・安倍夜郎さんは、普段どんなお店に通っているのでしょうか。作品の原点となったお店の存在、よく訪れるというお店のお話から、安倍さんが「通いたくなるお店の共通点」に迫ります。


一度ならず、何度も足を運んでくれる“おなじみさん”は、飲食店にとって心強い存在です。そうした常連客の心をつかむお店は、どのような工夫をしているのでしょうか。また、お客さんから見てどういうお店が「通いたくなるお店」なのでしょうか。

今回お話を伺ったのは、ドラマや映画にもなった人気漫画『深夜食堂』で知られる、漫画家の安倍夜郎さん。『深夜食堂』でお客さんとお店の濃密な関係を描く安倍さんは「料理よりも、その料理を食べる人間を描きたい」と話します。

10年以上は通っているという横浜の「埼玉屋食堂」で、作品を通じて伝えたい食のあり方や「通いたくなるお店の共通点」をお伺いしました。

安倍夜郎さん自画像イラスト(小学館提供)

安倍夜郎さん

1963年高知県中村市(現・四万十市)生まれ。早稲田大学卒業後CM制作会社勤務を経て、2004年『山本耳かき店』で漫画家デビュー。2006年「ビッグコミックオリジナル(小学館)」に掲載した『深夜食堂』が人気を博し、第55回小学館漫画賞一般向け部門、第39回日本漫画家協会賞大賞などを受賞。実写ドラマのシリーズ化や劇場版も話題に。韓国や台湾、中国でも映画やミュージカルが公開されるなど、海外でもファンを増やしている。『深夜食堂』は最新29集まで発売、その他に『酒の友めしの友(実業之日本社)』『たそがれ優作(幻冬舎)』など著書多数。

『深夜食堂』のモデルになった、ゴールデン街「レカン」の思い出

――『深夜食堂』の舞台となったのは、新宿ゴールデン街にある架空のお店「めしや」ですが、これにはモデル(原点)になったお店があると伺いました。どんなお店だったのでしょうか。

安倍さん:正確にいうと新宿ゴールデン街の並び、花園5番街にあった「レカン」というお店です。

「レカン」のママはさっぱりとした気立てのいい方で、常連さんに“まりちゃん”と呼ばれていました。詰めれば8人座れる程度の小さなお店で、いつ行ってもスッと入れるのが良かったんですよ。手作りのおつまみがおいしくて、客層も良くてね。お客さんは個々に来て静かに飲んでいるけれど、なんとはなしに自然とみんなで話す雰囲気になるんです。まさに『深夜食堂』のカウンターのような、そんな空気でしたね。

安倍夜郎さんの著書の一部。『深夜食堂』は現在29集まで発売中(インタビュアー撮影)

安倍夜郎さんの著書の一部。『深夜食堂』は現在29集まで発売中(インタビュアー撮影)

――どんなきっかけで「レカン」に通うようになったのですか?

安倍さん:ボクは41歳で漫画家としてデビューしたんですが、それまでは新宿御苑前にあるCM制作会社に勤めていました。社会人2年目の時、先輩に連れられて初めて「レカン」に行きました。居心地が良いなあと、それから一人でも通うようになりました。お酒を覚えてからはビールばかり飲んでいましたけど、ここで人生初めてのボトルキープも体験してね。フォアローゼスをボトルで入れました。ボトルキープすると、席料がお通し付きで1,000円程度。割り材やつまみは別料金だけど、閉店まで何時間でもいられるんですよ。ボトルを入れずに1杯ずつ注文するよりお得なんですよね。

何となくまっすぐ家に帰りたくない時とか、会社帰りに週1~2回程度のペースで寄っていましたね。帰る前にシャワーを浴びてさっぱりするような感覚です。漫画家になってからは頻繁に行けなくなってしまったけれど、締め切り後に月に1~2度くらいかな。40年近くも「レカン」へ通っていましたね。

『深夜食堂』はグルメ漫画やうんちく漫画ではない

――漫画家としてデビューされた後、「レカン」をモデルに『深夜食堂』を描こうと思われたのはなぜでしょうか?

安倍さん:当時の担当編集者から「食」をテーマとして提案されたんですよ。その頃、食やお酒にまつわる漫画で大ヒットしていたのは『美味しんぼ』や『BARレモン・ハート』など。めったに食べられない特別な食材を使った料理や、こだわりのお酒をテーマにした作品です。「食の漫画=グルメ漫画」と呼ばれるようになったのはこうした作品の影響だと思うんですけど、ああいったお話を描くには食に関する深い知識が必要です。

ボクにはそうした知識がなかったので、誰もが知っている料理や、食べたことがないけれど味が想像できるような料理をメインに、店に集まる人たちの人間模様を描くようなストーリーにしようと考えました。この頃、ボクが一番親しみを持っていたお店が「レカン」でしたし、あの温かな雰囲気がいいなと思ってモデルにさせてもらいました。

取材は横浜にある「埼玉屋食堂」にて。グラスを傾けながら、軽やかにインタビューに応じる安倍さん

取材は横浜にある「埼玉屋食堂」にて。グラスを傾けながら、軽やかにインタビューに応じる安倍さん

――深夜食堂のメニューは豚汁定食とお酒だけで、あとは「注文してくれれば、できるもんなら作る」という設定も特徴的ですよね。

安倍さん:物語を続けるための戦略です(笑)。新人の場合、まずは読み切りを描いて、評判がよければ連載というコースが定石なんです。「深夜食堂」はボクのデビュー2作目で、これがヒットすれば漫画家として食べていけるという岐路に立っていましたから、今後の可能性を考えて展開が効くようにしました。

――第一夜は「赤いウインナー」、第二夜は「きのうのカレー」、第三夜は「猫まんま」。いずれも読み手が味を想像しやすい料理ですね。

「深夜食堂 第1集 赤いウインナー」©安倍夜郎/小学館 ビッグコミックオリジナル連載中

「深夜食堂 第1集 赤いウインナー」©安倍夜郎/小学館 ビッグコミックオリジナル連載中

安倍さん:要は「うんちく漫画ではない」「グルメ漫画ではない」と宣言したかったんです。どれも説明不要な料理なので、ボクの決意表明を一番端的に表現できると思いました。

――2006年に連載がスタートして、現在までコミックスが29集発売されていますが、ストーリーはどのように考えているのでしょうか。

安倍さん:季節を意識した料理や、自分が今食べたいものっていうのが基本です。「肉が続くから野菜にしよう」とか、バランスを見て決めることもありますし、登場人物から発想する場合もあります。

最新刊「深夜食堂 第29集」(小学館提供)

最新刊「深夜食堂 第29集」(小学館提供)

例えば、「赤いウインナー」の時は、あのかわいらしいタコの形のウインナーを誰が食べたら一番面白いかなと。かわいらしさとは対極にいるようなヤクザがいいのでは、と決めた経緯があります。また、カツ丼の場合は勝負事のゲン担ぎからボクサーを登場させるとかね。最近は会う人会う人に「何か面白い話ないか」と聞いていますよ(笑)。

毎回注文するというポテトサラダ

毎回注文するというポテトサラダ

――深夜食堂はドラマや映画にもなり、海外にもファンが増えています。「レカン」のまりちゃんや、常連さんとは作品についてお話しすることもありましたか?

安倍さん:そうですね、最初の頃は「レカン」でよく会う常連さんを登場させたりもしていたので。料理で言えば、「ツナクラッカー」「オイルサーディン」「ナポリうどん」は「レカン」のメニューなんです。まりちゃんにレシピを教えてもらって自宅で再現したり、お店で作るところを見せてもらって絵に起こしたりね。「ナポリうどん」なんて珍しいけれど、みんな何となく味が想像つくでしょう? 漫画に描いてからは、「ナポリうどんを食べに来た」というお客さんが増えたとも聞きました。

「深夜食堂 第14集 ナポリうどん」©安倍夜郎/小学館 ビッグコミックオリジナル連載中

「深夜食堂 第14集 ナポリうどん」©安倍夜郎/小学館 ビッグコミックオリジナル連載中

――常連さんをモデルにする場合、「描いていいですか」とその方に許可を取られるんですか?

安倍さん:いいえ、ほとんど取らないですね。そもそも、モデルがいる場合はその人のことを悪く描くことはありません。深夜食堂自体、思い詰めた内容ではなく、最後には救いがあるような読後感を意識していますから。みなさんそれを知ってるもんですから、描いても嫌がる人はいないですね。本当に、「レカン」がなければ深夜食堂はあの形にはなっていなかったと思います。

――安倍さんを含むお客さん同士も良い関係であることがうかがえます。「レカン」はまりちゃんの体調不良もあり、2024年2月に惜しまれながら閉店されたと伺いました。長年通っていたお客さんとして、心境はいかがですか。

安倍さん:23歳の頃からずっと通ってきたお店なので、手持ち無沙汰というか、どうしていいかわからないんですよね。常連さんにも、他のお店ではなかなか会わないですし。他にもよく行くお店はありますが、店主の方がご高齢のことも多いので、お店を閉めるケースも多いんですよね。これからどこに行ったらいいのかと寂しい気持ちです。

安倍夜郎さん

「開拓者精神がゼロ」な安倍さんに聞く、良店の見つけ方

――今日は横浜市南区にある「埼玉屋食堂」さんでお話を伺っています。安倍さんにとってどのようなお店ですか?

安倍さん:安くて旨い大衆食堂を紹介する『オアシス食堂』というコミックエッセイの取材で伺ったのが最初です。文筆家・漫画家の左古文男さんと一緒に作った本で、他のお店は担当編集さんからの提案が多いんですが、こちらは知人におすすめされて知りました。

週刊大衆の連載『~地元に愛される町角の名店食べ歩記~週刊大衆食堂』を単行本化した『オアシス食堂』(双葉社、インタビュアー撮影)

週刊大衆の連載『~地元に愛される町角の名店食べ歩記~週刊大衆食堂』を単行本化した『オアシス食堂』(双葉社、インタビュアー撮影)

1929(昭和4)年に開業された食事処で、営業は朝7時から。主に横浜の港湾で働く人たち向けに、ごはんのおかずにも、お酒のつまみにもなる一品を数多く提供されているんです。古き良き昭和の雰囲気が残っていて、どこを取っても味があって絵になる。今、こういうお店ってなかなかないじゃないですか。

ボクは2014年に初めて伺って以来、年に1~2度のペースで食べに来ています。東京の自宅からだと2時間くらいかかるので頻繁には通えないのですが、混み合う時間帯はなるべく避けて、お昼前か夜の早い時間に来ることが多いですね。その方がゆっくり過ごせるし、マスターとも話せますしね。

埼玉屋食堂

壁には安倍さんのサイン色紙が飾られている

壁には安倍さんのサイン色紙が飾られている

――安倍さんは、初めて足を運ぶお店をどのように選んでいますか? 店構えやクチコミなどを参考にする部分もあるのでしょうか。

安倍さん:ボクは開拓者精神がゼロなんですよ。今通っているお店は、誰かに連れてきてもらったりおすすめされたり、取材で伺ったところがほとんどです。料理の味が好みで、居心地の良さを感じれば、そのままひとりでも通いますね。

30年以上愛される、埼玉屋食堂の名物「焼酎の牛乳割」(400円)。割り材となる瓶入りの牛乳は特定銘柄のものを仕入れ続ける、といったこだわりも。他に「コーヒー牛乳割」もある

30年以上愛される、埼玉屋食堂の名物「焼酎の牛乳割」(400円)。割り材となる瓶入りの牛乳は特定銘柄のものを仕入れ続ける、といったこだわりも。他に「コーヒー牛乳割」もある

棚には焼き魚や煮物、和え物などがずらりと並び、自由に組み合わせて食べられる

棚には焼き魚や煮物、和え物などがずらりと並び、自由に組み合わせて食べられる

――安倍さんが思う「居心地の良さ」とは、具体的にどんな部分から感じますか?

安倍さん:ボクにとって居心地の良いお店は、気軽に行けるお店。だから、3カ月前から予約しないといけないようなお店はめったに選びません。「飲みたいな」と思った時にすぐ入れて、気持ちよく酔って過ごせるお店が好きなんです。

串カツ(2本で350円)も安倍さんお気に入りのメニュー

串カツ(2本で350円)も安倍さんお気に入りのメニュー

安倍さんが通いたくなるお店の「共通点」とは

――では、これまでのお話を踏まえて、安倍さんが何度も通いたくなるお店にはどんな共通点があると思いますか?

安倍さん:「混んでなくてすぐに入れること」「料理がおいしいこと」「うるさくするようなお客さんがいないこと」。それから、「店の人が適度に放っておいてくれること」かな。あんまり話しかけられるのは嫌だけど、「レカン」のまりちゃんのように、沈黙が続いた時にさりげなく話題を振ってくれるとかね。難しいけれど、そういう心の機微みたいなものが分かる人のお店に通いたいですよね。店主が威張っているとか、お客さんが気を遣わなければならないようなお店はいやですから。

『オアシス食堂』の取材でも感じたことですが、いい店の「良さ」はやはり店主の顔にも表れると思います。顔には人間性が出ますからね。

〆によく注文するという「焼飯」(550円)。味付けはバター醤油で、頂には半熟の目玉焼きが。卓上の醤油を軽く回しかけ、黄身を崩しながら食べるのが安倍さん流

〆によく注文するという「焼飯」(550円)。味付けはバター醤油で、頂には半熟の目玉焼きが。卓上の醤油を軽く回しかけ、黄身を崩しながら食べるのが安倍さん流

――では最後に、もし安倍さんが飲食店を経営するとしたら、どんなお店にしたいですか? 理想があれば教えてください。

安倍さん:いやいや、お客として行くからいいのであって、自分で(お店を)やろうと思ったことは一度もないですね。理想の店は、それこそ(『深夜食堂』の)「めしや」じゃないですかね。常連さんだけでなく一見さんもスッと入れるようなバランスのいいお店。

いろいろなところに出かけても、ここに来れば「ああ、帰ってきたな」と感じられるようなね。まさに埼玉屋食堂さんがボクにとってそんな存在。ホッとするような雰囲気が大事なんじゃないかなと思いますね。

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【取材先】

埼玉屋食堂

埼玉屋食堂
住所:神奈川県横浜市南区中村町2-113
電話:045-251-6326

取材・文/田窪 綾
調理師免許を持つフリーライター。惣菜店やレストランで8年ほど勤務経験あり。食分野を中心に、Webや雑誌で取材やインタビュー記事作成、レシピ提案などを行っている。

編集:はてな編集部