野毛の「せんべろセット」から見えてきた、街の風土に合った経営戦略

神奈川県屈指の飲食・歓楽街として知られる「野毛」。戦後の闇市から発展し、今では約600軒とも言われる飲食店が軒を連ね、「呑んべえの聖地」として連日多くの人でにぎわうエリアとなっています。本シリーズでは、野毛の酒場案内人・野毛べろさんの案内のもと、そんな野毛の酒場の魅力と、この街自体が人を引きつける理由を探っていきます。

これまで2回にわたって記事をお届けしてきた当シリーズも今回が最終回。第3回目のテーマは「せんべろ」。元は“1,000円でベロベロに酔える”ことを表現したこの言葉ですが、野毛では数年前からこの概念をメニュー化した「せんべろセット」を提供する店が増えています。「せんべろ」にかける店主たちの思いとは?2つの店舗を訪問しました。

 野毛べろさん

野毛べろさん

神奈川県横浜市出身。1980年生まれ。2019年より“野毛べろ”を名乗り、X(旧Twitter)、ブログ、YouTubeなどで、野毛の酒場の魅力を伝える活動に取り組んでいる酒場案内人。「野毛は日本一はしごが楽しい街」を合言葉に、毎回5〜7軒は酒場をはしごする。

【1軒目】「せんべろセット」の導入で、“せんべろの街”として集客を狙った「もつ焼きごえん 野毛店」

まずは、野毛の「せんべろセット」の先駆けとも言うべき「もつ焼きごえん 野毛店」さんです。

呑んべえを誘う赤いのれん

野毛べろ

こちらの「せんべろセット」は本当に大人気で、土日は行列ができることもあるんですよ。

 

――「せんべろセット」というと、お店の開店間際や平日など、お客が少ない時の集客手段というイメージがあるのですが、そもそも土日も提供しているんですか?

野毛べろ

そこがまたすごいですよね!ま、話は後にして早速入ってみましょう。

 

お店の中は、うなぎの寝床のような細長い空間

野毛べろ

じゃあ、さっそく名物の「せんべろセット」をお願いします!

 

セット内容はドリンク3杯と、串2本、また「もつ煮込み」か「もつ刺し」のどちらかから選択

野毛べろ

飲み物はハイボールやサワーなど、いろいろ選択肢があるんですけど、すごいのはビール(小サイズ)も選べるんですよね。最近の物価高でも、値上がりは税込1,000円から1,100円にとどめていただいているので本当にありがたいです(土日祝は1,300円)。僕は「神コスパのせんべろセット」と呼んでいます。

 

野毛べろさん(左)と、取締役の井筒将太さん(右)

――これは文字通り「神」ですね。このせんべろセットをめがけて、行列ができることもあるんですよね?

井筒さん

はい。もう、うちの看板メニューとして、すっかり認知いただいています。土日だけでなく、平日でも開店時に並んでいただくことがあって。正直、始めた当初は、ここまで影響力があるものとは思いませんでした。

 

――野毛の「せんべろセット」の先駆けと伺ったのですが、そもそも導入したきっかけはなんだったんですか?

井筒さん

昔から野毛にも「せんべろ」を楽しめる店は多くありましたが、東京の赤羽や立石のように広く認知されていませんでした。そこで、野毛を改めて「せんべろの街」として盛り上げたいという思いから、2022年の店舗リニューアル時にせんべろセットを導入しました。当時、野毛で「せんべろセット」と銘打って導入している店はほとんどありませんでした。

 

2007年にキッチンカーから飲食業に参入し、現在は同店のほか6つの店舗を経営

1軒目として使っていただくことで、巡り巡ってお客が帰ってくる

――反響は最初から大きかったんですか?

井筒さん

いえ、最初は宣伝手段が店のSNSくらいしかなかったので、認知度が低く、ほぼ反響はなかったですね(笑)。徐々にお客さんや、野毛べろさんやインフルエンサーさんが情報を拡散してくれて、数カ月かけて認知が広まり、客足も伸びたという感じです。でも、新しいことを他店より少し早く始められたことはプラスに働いたと思います。

 

野毛べろさんのYouTube動画も、お店の存在を拡散するきっかけになったとか

――料理が2品ついて、ビールも選べてドリンク3杯、しかも土日も提供という、お客さんとしてはありがたいサービスですが……お店としては大丈夫ですか?

井筒さん

思い切った選択ではありましたが、後から内容は変えられるのだから、やるのなら思い切ってやろう!と思って攻めました。

 

――これだけ充実していると、せんべろセットだけで帰ってしまうお客さんは多い気もします。

井筒さん

多いですね。特に野毛には何軒も酒場をハシゴする文化があるので、せんべろセットで15分とか30分でパッと飲んで行かれる方が多いのですが、それでいいんです。利益は薄いものの店としては宣伝費も兼ねているという考え方ですし、回転数も上がるので、悪いことはありません。ただ、もうちょっと食べたいという方のニーズにも応えたいので、小皿系のメニューは充実させています。

 

せんべろセットと並んで人気の野菜肉巻き。主に女性から人気のメニュー

野毛べろ

野毛の呑んべえからすると、せんべろセットのメリットって、飲み歩きの1軒目にちょうどいいってことなんですよね。スタートの店では、やはり長居せずに次の店へスムーズに移動したい。だから、お得にサクッと楽しめるセットは理想です。

井筒さん

本当に、飲み歩きのスタート地点としてうちを利用していただけたら理想ですね。野毛の街って、お店が飲み歩きを推奨していて、どの店でもお客さんに 「いま何軒目ですか?」、「次の店、ここがおすすめですよ」と声を掛けることは普通なんです。僕らも店を出るお客さんには、これから始まる野毛の夜を楽しんでね、という思いを込めて「いってらっしゃい」と声を掛けるようにしています。そういう風に、飲食店同士がお客さんの回遊を促しているので、巡り巡ってうちの店にも来客が増えています。

 

「ごえん」という店名には、お店をきっかけに人との“ご縁”が広がってほしい、そんな思いが込められている

野毛べろ

そう考えると、野毛の「せんべろセット」って、単に“安く飲めるお得なセット”以上の意味を持っていますね。気軽に飲んで、さっと次の店に行く、そんなスタイルを支える重要なサービスであり、飲み歩き文化への橋渡し役も担っている気がします。

【2軒目】4杯+4品で1,000円という神コスパのサービスでお客の回遊率が向上した「野毛のスタ場」

「もつ焼き ごえん」の成功例が起爆剤となり、野毛の街全体に広まった「せんべろセット」サービス。いまや珍しいものではなくなりつつありますが、ずば抜けてお得なせんべろセットを提供する店があります。それが「野毛のスタ場」。さっそく、野毛べろさんの案内で向かってみました。

2022年オープン。日ノ出町駅から徒歩2分という好立地

野毛べろ

野毛のスタ場さんは、野毛ではおなじみの「横丁」スタイルで、一つの施設の中に複数の店舗が入っています。全部で4つの店があり、1階に3店舗、2階に1店舗という構成です。特徴的なのは、一般的な横丁と違い、好きなタイミングで自由に店舗を行き来できること。支払いはキャッシュオン形式で、各店ごとに注文のたびに精算します。だから、A店で料理を頼んでから、B店に移動してお酒を注文するといった楽しみ方もできるんです。

 

1階に入るのは、焼き鳥、おでん、イタリアンの店

2階は2025年10月オープンの寿司居酒屋

――めちゃくちゃ自由に過ごせていいですね。

野毛べろ

そうなんですよ。だから、他のお客さんと交流しやすいんです。例えば、奥のイタリアンで飲んでいるときに、焼き鳥の店から楽しそうな会話が聞こえてきたら、自分もそちらに移動してその輪に入ることができます。ここにいると、どんどん新しい顔見知りが増えて、それが楽しいですね。他の横丁ではなかなかできない体験ですし、そもそもスタンド形式の横丁は、野毛ではここだけなんじゃないですかね。

 

――せんべろセットもすごいんですよね?

野毛べろ

はい。野毛のスタ場では店舗ごとではなく、施設全体のサービスとして「スタセン」というせんべろセットを提供しています。すごいのは、その内容です。ドリンク4杯にフード4品がついて、価格は1,000円ぽっきり。他であまり見かけない、破格のお得セットです。

 

スタセンは、最初の店舗で会計を済ませ、受け取った札を使って各店舗でドリンク・料理と交換する仕組み

せんべろセットのフードは各店の独自メニューが一品ずつ堪能できる。ドリンクは共通の5種(ハイボール・ウーロンハイ・キャミハイ・レモンサワー・ジャスミンハイ)から選ぶ

「せんべろセット」の独自システムが、常連の増加にも寄与

果たして、なぜここまで突き抜けた取り組みを行うことができるのか?「野毛のスタ場(以下、スタ場)」オーナーの新澤聖樹さんにお話を伺いました。

野毛のスタ場オーナーの新澤聖樹さん

とりあえず乾杯!

――この独自の横丁スタイルを導入した経緯について教えていただけますか?

新澤さん

前提として、スタ場が入っているこのビル自体を建て直す計画がありました。そのためスタ場も、当初は「約3年間の期間限定営業」としてスタートしたんです。私自身、これまでさまざまな飲食店の経営に関わってきましたが、スタ場に関しては期間限定という制約があったので、「実験場」と割り切って、新しいことに積極的に挑戦してみることにしたのです。

 

――例えば、店を自由に移動できるシステムも、そうなのでしょうか。

新澤さん

はい。実は私、野毛にあるいくつかの横丁形式の飲食施設も手がけているんですけど、横丁を利用されるお客さまから、「隣の店の料理も注文できたらいいのに」という要望をいただいていました。そこで、スタ場では横丁スタイルでありながらスタンド席を設け、席の移動や店舗をまたいだ注文ができるようにしたんです。普通の横丁は店ごとに経営者が違うため、こうしたコラボは難しいですが、スタ場は最初から「施設全体を活性化することが、自分たちの店の利益にもつながる」という考え方に賛同する経営者同士を集めることで、その課題をクリアしました。

 

――せんべろセットも、そういった実験的発想から生まれたのでしょうか?

新澤さん

そうです。「野毛で一番安いせんべろセットを作ろう!」という思いで始めました。最初はドリンク3杯+フード3品だったのですが、その後せんべろセットを導入する店舗が増えたので、値段はそのままで4杯+4品にボリュームアップしたんです。

 

――もう、採算度外視といった感じですよね。

新澤さん

そうですね。でも、やっぱり「せんべろセット」は、ご新規さんの興味を引きやすく、店にも入っていただきやすくなる非常に優れた仕組みなんです。しかも、4杯+4品という破格の内容はインパクトがあり、強い訴求力があります。利益は少なくても、常連を増やすにはまず“来てもらう”ことが何より大事です。

 

オープン直後から次々とお客が入ってくる

野毛べろ

しかも、スタ場のせんべろセットは、お客さんが横丁の店舗を自由に回れる仕組みになっているので、「こんな店もあるんだ」、「この店には、こんな料理があるんだ」という施設全体の認知向上につながっています。想像以上の集客で、結果的にビルの取り壊しも白紙になったほどですから。

新澤さん

2階に4店舗目をオープンしたときは「2階までお客さんが来てくれるかな?」と心配していましたが自然と認知が広がりましたね。また、施設内でお客さんの流動性が高まると、知らない人同士が話すきっかけも増えますよね。店内で仲の良い人がどんどん増えていった結果、気付けばスタ場の常連になっている。こういう流れで定着してくれるお客さんが、けっこう多いんです。

野毛べろ

僕自身、このお店で知り合った人は、もう何十人もいます(笑)。野毛の呑んべえはフレンドリーで面倒見のいい人が多く、知らない人同士でも酒場ではすぐ打ち解けてしまうんです。スタ場でも、ルールが分からず戸惑っている新規のお客さんに、常連さんが「初めて?」と声をかけている光景をよく見かけます。

 

野毛べろさんにとって、スタ場は「ここに来れば誰かに会える」という安心感があるそう

――「せんべろセットによる施設内での回遊性向上」×「野毛のフレンドリーな雰囲気」が絶妙にマッチして、お客さんの常連化にもつながったんですね。最後に、今後のお店の展望をお聞かせいただけますか。

新澤さん

お客さん同士の交流は、店舗全体の盛り上がりにもつながるので、これからも促進していきたいですね。常連さんも初めての方も、さまざまな人が出会って交わり、そして次の店へと出掛けていく、はしご酒の盛んな野毛の街の中で、「ハブ」のような存在になれたらと思っています。

「競合」ではなく「協力」の姿勢が野毛を盛り上げている

野毛の酒場を取材する中で強く意識させられたのは、お客同士も店同士もゆるやかにつながり合う独特の空気感。知らない者同士でもすぐに打ち解けて、自然と次の一軒の情報が飛び交い、店側からも「次はあの店がいいですよ」と別の店を勧めることが普通です。

他店を紹介するだけでなく、氷が不足した店があったら分けるなどといった相互協力も日頃から普通にあるそう。酒場がひしめき合う野毛では、熾烈な競争が繰り広げられているのかと思いきや、「競合」ではなく「協力」に重きを置かれているという点が意外な発見でした。

スタ場では店内に自作の「野毛マップ」を貼り、飲み歩きにおすすめの他店を紹介している

そして、野毛の街で繁盛しているお店は、この文化を深く理解し、街全体の盛り上がりを「自分ごと」として考えながら営業している共通点があるように感じられました。この店と街が一体になった空気がまた、多くの人を魅了し、飲み歩きへと誘い、野毛を「呑んべえの聖地」たらしめているのかもしれません。

野毛べろさん、ありがとうございました!

取材先紹介

もつ焼きごえん 野毛店

野毛のスタ場

取材・文小野和哉

1985年、千葉県生まれ。フリーランスのライター/編集者。盆踊りやお祭りなどの郷土芸能が大好きで、全国各地をフィールドワークして飛び回っている。有名観光スポットよりも、地域の味わい深いお店や銭湯にひかれて入ってしまうタイプ。

写真新谷敏司
企画編集株式会社都恋堂