
昭和より「サラリーマンの聖地」として名高い新橋の一角にたたずむ「ビアライゼ'98」。お客の目当ては店主・松尾光平さんが繰り出す至高の一杯。“伝説のビール注(つ)ぎ名人”と称された故・新井徳司さんから技術と哲学を受け継ぎ、昇華させた注ぎ方は、現在“松尾注ぎ”とも呼ばれています。その一杯は、多くのファンを引きつけるだけでなく、全国の同業者もこぞって来店し、松尾さんに注ぎ方の教えを乞うほど。「自身が継いだ味を次世代につなげていきたい」と語る松尾さんに、新井さんとの出会いや継承した技術、そしてその技術を広めていくことへの思いを伺いました。
- 伝説の店「灘コロンビア」へのアルバイト応募が原点
- 師匠をビール注ぎの名人にした“発明”と“出会い”
- 「なぜそうするのか(Know-Why)」を突き詰めたからこそ技術の継承が深化
- 店名に隠された師匠へのたゆまぬ思い
- 100人以上の“弟子”に伝えた「Weitertrinken」な一杯
伝説の店「灘コロンビア」へのアルバイト応募が原点
――松尾さんがこの世界に入ったきっかけを教えてください。
高校1年生のとき、バイクを買うお金を貯めるために「灘コロンビア」のアルバイトに応募したのが始まりです。灘コロンビアは私の師である新井徳司さんが東京駅八重洲口に開業された伝説のビアホールで、当初は日本の三大酒どころである兵庫県の灘の酒を出す「灘ホール」という酒場でした。新井さんは当時まだ30歳前でしたが、お燗銅壺(おかんどうこ/おちょうしの酒を温める道具)で良いあんばいの燗(かん)をつける達人で、多くの常連を獲得していたそうです。

――灘ホールがビールを提供し始めた経緯はなんでしょう。
戦後、ビールは配給制でしたが、1949(昭和24)年に一般の飲食店でも販売が認められたことがきっかけでした。これからはビールの時代が来ると直感した新井さんが、当時の大日本麦酒株式会社(現在のアサヒビール・サッポロビールなどの前身)からビールサーバーを借り受けて、生ビールの提供を始めたんです。新井さんは現在アサヒビールから出ている「マルエフ」を選んだのですが、その理由は八重洲に近い吾妻橋にビール工場があり、鮮度と冷たさを保ったまま店に搬入できたから。もちろんマルエフはビアライゼ'98の看板メニューとして引き継がれています。

師匠をビール注ぎの名人にした“発明”と“出会い”
――お燗(かん)をつける達人であった新井さんが、なぜビール注ぎの名人と呼ばれるようになったのでしょうか。
大きく2つの理由があります。一つ目の理由は、新井さんが革新的なビールサーバーを考案したことです。当時は、冷やしたビールの生樽から、タワー式になっているサーバーの内部を通してビールを注ぐ方式が主流でした。ただ、カウンター上にあるタワーとカラン(ビールを注ぐレバー付きの蛇口部分)は常に室温にさらされているため、タワー内にたまったビールは液温が上がってしまい、グラスに注いだ時に泡だらけになったり、味わいが損なわれてしまいます。そこで新井さんは、寸胴内を氷水で満たし、その中に螺旋状に巻いたビール管を配置した「氷冷式・寸胴型」のビールサーバーの仕組みを考案。専門業者につくってもらいました。これによって、常に冷たい生ビールの提供が可能になったのです。この氷冷式サーバーは、ビアライゼ'98で今も現役稼働している現存最古のサーバーなんですよ。


――冷たい生ビールをサーブできるようになり、二つ目の理由は……?
もちろん注ぎ方が大きく改善されたことです。灘コロンビアの常連客の中に、ドイツ文学者の先生がいらっしゃって、新井さんは非常に有益な助言をいただいたそうです。その先生は昭和30年頃にはビールに関する著書を出されていて、当時の日本では非常に珍しい、本場のビールの何たるかをよく知る人物でした。先生がドイツの現地で見て、経験してきた注ぎ方やビールの適温、味わいやのど越し、キレやコクを細かく伝え、それに基づき新井さんは試行錯誤を繰り返したそうです。結果、ドイツで主流の「3度注ぎ」を、シャープでキレの良いマルエフ用にアレンジした「2度注ぎ」にたどり着きました。「何杯飲んでも飲み飽きない」を意味するドイツ語である、「Weitertrinken(ヴァイタートリンケン)」な一杯を完成させたのです。

――松尾さんが新井さんに出会われたように、新井さんにもまたその先生との巡り合わせがあったのですね。
そうですね。それに加えて新井さんはそもそもビールとはどんな飲み物なのか、どのような歴史があり、原料は何で、どういった製造工程なのかなどの面にも興味を持ち、多くの文献を読んでいました。人類最古のビールはメソポタミア文明の時代にまでさかのぼるのですが、その話を、カウンター越しにお客さまに何度も伝えていましたね。かくして1950年代半ば、新井さんは、「ビヤホールライオン銀座七丁目店」の渋井栄二郎さん、神保町の「ビアホールランチョン」の鈴木一郎さんと並んで東京の3名人と称される、ビール注ぎの名手になったんです。
「なぜそうするのか(Know-Why)」を突き詰めたからこそ技術の継承が深化
――新井さんのビール注ぎの技術を継承することになったきっかけを教えてください。
私が高校3年生になり、大学へ進学するつもりなので灘コロンビアを辞めると伝えたのですが、「うちに入らないか」と誘っていただきました。思い切って入社することにしたのが発端です。しばらくして料理担当になり、その流れで「光ちゃん、ビールも注いでみるかい」と。ただ、私は当初あまりやる気が起きなかったんです。何しろお客さまは“名人”が注ぐビールを飲みに来るわけですから。それでも新井さんが諦めずに私に注ぎ方を伝えようとしたのは、20歳前の小僧を預かった責任を感じていたからかもしれません。

――新井さんはどんな教え方をされたのですか。
「教える」のではなく、「考えさせる」のが新井さんのやり方でした。例えば、なぜビールは苦いのかに始まり、まずいビールは何がまずさの原因なのか、どうして2回に分けて注ぐのが良いのか、泡の分量がある一定の割合でおいしいと感じるのはなぜなのか……。とにかく「方法(How-to)」ではなく、「なぜそうするのか(Know-Why)」を徹底的に問い、考えさせられました。挙げ句は「ビールの苦みは舌ではなく脳に感じさせるのが良いのだが、それはなぜか」なんて、「?」しか浮かばない質問も飛んでくる(笑)。営業時間終了後、実技も交えつつそんな問答をする時間が1時間くらいあり、それが5年ほど続きました。そこで、私もなぜそうするのか?を知るために、図書館でビール醸造の工程や歴史、種類、ブルワリーの場所による味の違いなど、多くの文献を読んで勉強しました。
店名に隠された師匠へのたゆまぬ思い
――まさに新井さんと同じプロセスをたどられたのですね。初めてお客にビールを注いだ時は緊張されたのではありませんか。
もう緊張したなんてもんじゃありません(笑)。新井さんも、何とか私の注いだビールを常連さんに飲んでもらおうと、あろうことか15~20分くらい店から姿を消してどっかへ行ってしまうんですよ。「早くビール飲みたいのにどうして親父は戻ってこないんだ?」、「仕方ない、お前が注げ」となって、そのお客さまは私の注いだビールを飲んだのですが、当然「まずい」と。そんなことを繰り返していたある日、常連さんの中に「どうして親父が信じた弟子のビールを飲めねえんだ?」っていう人がいらっしゃって。そのうち、「じゃあ5杯のうち1杯だけお前の飲んでやるよ」とおっしゃる方も出てきて、だんだん私の注ぐビールが認知されていき、ついには新井さんと私のツートップになったんです。私が正式に入社してから10年近くの歳月が経っていました。
――その後、1993年に新井さんが急逝され、松尾さんは灘コロンビアを受け継がれたのですね。
常連さんから、「親父の技術の継承にどうにか間に合ったな」と言っていただきました。新井さん亡き後は新井さんの奥さんと営業していましたが、奥さんが体力的に厳しくなってきたため、独立して新井さんの遺志と技術を継ぐ店を持とうと決めたんです。灘コロンビアが閉店したのは1998年3月で、同じ年の5月に「ビアライゼ'98」を開業しました。灘コロンビアの常連さんをはじめ、多くの新井さんのファンも来店いただき、何とか軌道に乗せることができたんです。



100人以上の“弟子”に伝えた「Weitertrinken」な一杯
――ビアライゼ'98が開店して既に四半世紀以上経っています。松尾さんは、新井さんの技術をどのように解釈し、自分のものにされたのでしょうか。
ひとつ挙げるとすれば、生樽の中に残っているビールの量、つまり樽のコンディションを踏まえて注ぐようにしていることでしょうか。例えば、業務用の20Lの樽には、うちで使っている標準のグラスで約50杯分のビールが入っています。注ぐほど残りは少なくなるわけで、注ぎ切るまでに、樽の頭から底まで50通りの変化が生じることになる。私の注ぎ方は、タップから出るビールの速さや音、カランに感じる感覚から調整し、意図的に泡を立てて炭酸の粒子を細かくしています。そうすることで苦味の角が取れて麦のうまみを引き出しているんです。現代のビール注ぎの主流である、炭酸の刺激を重視する「シャープ注ぎ」とは対極にあると思っています。

――それが「松尾注ぎ」なんですね。これは誰が命名されたのですか。
チェコのピルスナーウルケル(ピルスナーの元祖といわれるビールを生み出した醸造所)公認の注ぎ手「タップスター」に、日本で初めて認定された佐藤裕介さんです。15年ほど前に彼から、「僕は松尾さんとシャープ注ぎの間の注ぎ方で“佐藤注ぎ”をやりますから、松尾さんは“松尾注ぎ”としませんか」と提案いただき、以来、それが徐々に業界内で定着していった感じですね。

――「松尾注ぎ」の技術を直接見たい、教えを乞いたいと全国から多くの同業者が訪れるとお聞きしました。
はい。営業時間中、ビールサーバー向かいのカウンター席に座ってもらい、実験と称して、あえてまずく注いだビールと松尾注ぎのビールを比較してもらったり、新井さんとの思い出話を聞いてもらったり。新井さん流に「Know-Why」を挟み、実演とストーリーを交えた短い“劇場”を開いています。何度も通って来られた方から、「うちのメニューに『松尾注ぎ』『シャープ注ぎ』と記載して、お客さまにビールをご提供してもいいですか?」と許諾を求められ、「もちろんいいですよ」と答えた事例もかなり多いです。これまで100人以上に松尾注ぎを伝え、10店舗以上のメニューに「松尾注ぎ」が載っていると思います。

――そのようにして、松尾さんが新井さんから受け継いだビール注ぎの技術が広まり、次世代に継がれていくのですね。
そう願いたいですね。「Weitertrinken」なビールを飲める場所が増えれば、消費量もどんどん増えていき、我々もお客さまも双方が幸せになれるのですから、こんなに良いことはないでしょう? 価格の高い高級ワインや焼酎、ウイスキーなどはおいしくて当たり前ですが、生ビールは注ぎ方次第でおいしさを上乗せして、価値を上げられる。こんなお酒はほかにありません。今後も、茶道や華道の「家元」のように、松尾注ぎの技術やビールの文化を広めていきたいと思っています。
取材先紹介
- ビアライゼ’98
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住所:東京都港区新橋2-3-4 新橋パークビル1F
HP

- 取材・文保倉勝巳
- 写真新谷敏司
- 企画編集株式会社都恋堂