老舗酒場に並ぶイタリアン。1人飲み客を温かく迎える板橋「松月」3代目の挑戦

駅ビルや大型マンションの建設でのどかな街の様子が変わりつつある、JR埼京線の板橋駅周辺。開発エリアを横目に、生活道路を歩くこと駅から約2分。真新しい街並みとは対照的な、昭和の面影を残す商店街が見えてきます。この場所で静かにのれんを掲げ続けているのが、今回紹介する大衆酒場「松月(しょうげつ)」です。

▼お店の特徴

▼今回の案内人を紹介

塩見なゆさん

酒場案内人:酒場や酒類を専門に扱うライター。全国1万軒以上の居酒屋を巡り、その魅力をテレビ・雑誌・Webマガジンなどで発信している。生まれは東京都杉並区。

家業を受け継ぎ、老舗酒場に“イタリアン”という新しい風を吹き込む

創業は1966年。半世紀以上の長きにわたり、地元住民や仕事帰りの会社員の胃袋を満たしてきた「松月」。赤提灯とのれんがお客を迎え入れる外観は、昔ながらの正統派酒場そのものですが、気になるのは看板に書かれた“イタリアン”の文字です。

引き戸を開けて店内に入ると、いまでは珍しくなった手書きの短冊メニューが壁一面を覆い尽くす光景が広がり、「ニラ玉」や「枝豆」、「じゃがバター塩辛のせ」といった居酒屋の定番が並ぶすぐ横に、「ペンネアラビアータ」や「生ハム」、「ベーコンとチーズのオムレツ」といった洋風のメニューが混在しています。

和洋折衷のメニューがズラリ

厨房(ちゅうぼう)に目を向けると、ガラス張りのネタケースには新鮮な魚介類が並んでいます。その奥で手際よく調理を進めるのは3代目・渋谷健太さん。隣には2代目も立っています。

老舗酒場にイタリアンが並ぶ理由は、イタリアンレストランで経験を積んだ3代目が、先代が守ってきたメニューに自身の料理を加えたから。今回は、家業を受け継いでイタリアンという新しい風を吹き込んだ渋谷さんに、老舗酒場が進化を続ける背景や、1人飲み客を魅了する店づくりについて伺いました。

3代目の渋谷健太さん

【1人飲みポイント①】その日の気分に合わせて和食とイタリアンをお手頃価格で楽しめる

塩見

老舗酒場でありながら、看板に「イタリアン」の文字が入っています。一瞬目を疑う光景ですね。

渋谷さん

そうですよね。まずはうちの成り立ちを話しますと、祖父が初代としてこの大衆酒場を立ち上げ、父が2代目として店を引き継ぎました。私は銀座や西麻布のイタリアンレストランで5年ほど修業を積んだ後、10年前に家業へ入っています。そのタイミングで、父から洋食のメニューを取り入れる許可をもらいました。看板に「イタリアン」を入れる予定はなかったものの、昔から付き合いのある看板屋さんから提案を受け、「じゃあ、入れてもらおうかな」ということになりました(笑)。

 

大衆割烹の下に追加された「イタリアン」の文字

イタリアンメニューで人気なのは、こだわりのパスタやピザ。老舗酒場でありながら食事需要にも応える

塩見

そういう経緯だったのですね!とにかくメニューの多さに圧倒されます。じっくり眺めていると、厨房(ちゅうぼう)の上にも「ガーリックポテトフライ」や「桜エビとブロッコリーのスパゲティ」など、多彩な短冊が並んでいます。

渋谷さん

私が店に立つようになった頃は居酒屋で人気の揚げ物のメニューはなく、そもそもメニュー自体も今より大幅に少ない状態でした。居酒屋に揚げ物は欠かせないと思ってフライヤーを導入し、洋食も20〜30品と加えながら、和食についても、私発案のメニューが少しずつ増えています。

塩見

毎日通っても飽きないくらいの品数ですね。イタリアンを提供し始めた当初、昔からの常連客の反応はいかがでしたか。

渋谷さん

開始当初は、「あんなの誰も頼まないよ」と厳しい意見をいただくこともありました。しかし、根気よく提供を続けた結果、カップルや女性のお客さんから好評を得るようになり、現在ではこだわりのパスタやピザなどを楽しみに来店される方が確実に増えています。

塩見

海鮮のバリエーションも豊富ですね。魚は下処理が必要ですし、店でちゃんと調理されたメニューばかりですが、その多くが数百円台に収まっています。安価な価格設定を維持する背景をお聞かせください。

渋谷さん

マグロは長年の付き合いがある市場の業者から仕入れています。それと、自社ビルのため家賃の支払いもありませんし、家族経営で人件費も抑えることができています。このように、固定費を極限まで低く保てているおかげで、利益を削ってでも原価率を高く設定することができ、それがこの価格帯につながっています。

 

こだわりのマグロは豊洲市場から。そのほかの肉や魚、野菜などは近所の店を巡って仕入れ、豊富なメニューを提供している

塩見

ドリンクメニューもエビス大びんは750円、サッポロ大生は880円、ホッピーは500円など、大衆酒場の定番がどれも驚くほどリーズナブルですね。

渋谷さん

月曜から水曜にかけては生ビールなどが、木曜から土曜にかけてはびんビールなどがさらに手頃にお楽しみいただけます。

塩見

家族経営という強みを最大限に生かして、お客さんへの還元を第一に考える姿勢は、古き良き大衆酒場のかがみだと感じます。

 

大衆酒場価格のドリンクがさらにお得に飲めるのもうれしいポイント

【1人飲みポイント②】あたたかな接客と距離感で一人客を孤立させない

塩見

松月のお客さんはどんな方が多いですか?

渋谷さん

都心ながらも板橋というのんびりとした土地柄もあるのか、うちに来てくださるお客さんは穏やかな方ばかりですね。ひと昔前の大衆酒場って、常連さんが黙々とグラスを空けている渋いイメージがあったと思うんです。でも最近は、僕と同世代の若い方や女性のおひとりさまも増えてきて、お店全体がより明るくて和やかな雰囲気になっています。

塩見

店の空気を和ませているのは、女将(おかみ)さんであるお母さまの温かい接客も大きいのでしょう。

渋谷さん

家族経営ならではの飾らない対応が、お客さんにとって心地よい距離感を生んでいるのかもしれませんね。

 

満席の店内をテキパキと仕切る女将(おかみ)さん

塩見

一人で訪れるお客さんへの接客で意識していることはありますか。

渋谷さん

カウンター席では、お客さん同士が自然に仲良くなれるような空気づくりを意識していますね。厨房が忙しいとなかなか難しい時もありますが、手が空いたタイミングを見計らって、なるべく自分から声をかけています。

塩見

静かに過ごしたいという方にはどのように接客されていますか。

渋谷さん

スマホやタブレットを見ながら一人で静かに飲みたい方のペースは邪魔しませんし、お酒が進んだお客さんが隣の方に絡み始めてしまった場合は、店側としてしっかり注意させてもらっています。どなたでも安心して楽しんでほしいと思っています。

塩見

一人で来ても孤独にさせない、毎日通っても飽きさせない。そんな工夫を時代に合わせて重ねてきたように感じます。

 

長年の営業で使い込まれたあめ色のL字型カウンターと、奥には木目の美しいテーブル配置されている

【1人飲みポイント③】「値よし、味よし、気分よし」の看板に偽りなし

塩見

世代交代のタイミングで新たに取り組んだことはありますか。

渋谷さん

父の代までは、ちょうちんとのれんだけで、外からパッと見て何を楽しめるか、少し分かりづらかったんです。そこで、その日のおすすめを書いたメニューボードを店先に出すようにしました。あとはSNSですね。Instagramを使って、お店の情報をこまめに発信するようにしています。

 

店先の黒板を眺めながらお目当てのメニューを見つけるのも1人飲みの楽しみ

塩見

板橋駅周辺の再開発に伴い、若い世代の流入も進んでいますね。洋食メニューが増えたことでお店にとって良い変化はありましたか。

渋谷さん

客単価が上がりましたね。昔はボトルをキープして安く飲んでいく常連さんがメインだったので、お一人あたり1,500円くらいでした。今はメニューの幅が広がったこともあって、2,000円から3,000円くらいに引き上がっています。ピザやカルパッチョと一緒にワインを頼んでくれる方も増えた影響が大きいと思っています。

塩見

外の看板や店内にも「値よし、味よし、気分よし」と書かれています。お店の魅力を体現する言葉ですね。

渋谷さん

昔、毎日来ていただいていた常連さんが書いてくれた言葉なんです。店の雰囲気にぴったり合っていたので、そのままキャッチコピーみたいに使わせてもらっています。

塩見

「気分よし」の部分に、何度も通いたくなる魅力を垣間見ることができます。最後に、今後の目標やお店が目指す姿についてお聞かせください。

渋谷さん

創業100年を目指して、こののれんをしっかり守っていくことですね。昔からの常連さんを大事にすることはもちろん、初めてフラッと入ってきてくれたお客さんにも「いい店だな」と思ってもらえるような、居心地のいい場所をつくっていきたいです。

 

「値よし 味よし 気分よし」の看板(左)。もととなった言葉には、よく見ると最後に「お客良し」とも書かれており、お客に愛される店であることをうかがい知れる(右)

「1人飲みがしたいのだけど、一人きりで飲みたいわけではない」を満たす場所

一人で店を訪れ、自分のペースで酒と肴(さかな)を楽しむ——。昨今のお一人さまブームも手伝ってか、幅広い業態で1人飲みがすっかり定着しました。一時の流行のように見えますが、一人客が店の活気をつくる構図は、実は酒場が古くから実践してきたこと。長きにわたりのれんを守る店は皆、一人客の受け入れを自然と重ねてきました。

専門店では一皿の量が多く頼める品が限られますが、大衆酒場ならば一人用のポーションで多彩なメニューを少しずつ楽しめます。料理の自由度の高さに加え、家での食事とは違う温かな交流も魅力です。

「1人飲みがしたいのだけど、一人きりで飲みたいわけでもない」、そんなお酒好きの気持ちに寄り添い、居場所を用意してくれるのが松月。のれんをくぐればいつもの店主さんが迎えてくれ、言葉は交わさずとも顔なじみの常連客と再会する期待感も膨らみます。

開発が進む板橋で暮らし始めた人たちも松月のカウンターに集い、新しい常連客の輪が広がっていくことでしょう。

美しい泡が盛り上がった生ビールで、一日の終わりのリフレッシュを

取材先紹介

松月


取材・文塩見なゆ
写真新谷敏司
企画編集株式会社都恋堂