一般的には10~40%とされる宿泊業のリピート率。そんな中、リピート率80%超という数字を長年維持し続けている旅館がある。石川県山代温泉の「宝生亭」だ。お客の「また行きたい!」を呼び起こすため、宝生亭が仕掛けている取り組みとは——。宝生亭の女将・帽子山(ぼうしやま)麻衣さんを訪ね、リピーターを増やすための試行錯誤、つないだ縁をより深めるための心掛けについて伺った。
20代新人女将の奮闘は、マイナスからのスタート
麻衣さんが宝生亭の女将となったのは29歳の時、夫の実家が複数の旅館経営を生業としていたことがきっかけだった。しかし、結婚当時、次男である夫は建設会社のサラリーマンとして勤務しており、自分が旅館の女将になるとは想像もしていなかった。
「義父から『宝生亭という旅館を買ったから、お前たち夫婦に任せたい』と言われたときは啞然として、一晩中考えました」
悩み抜いた末、女将になると決心した麻衣さん。建設会社を辞め、未経験だった旅館経営に奮闘する夫と、献身的に旅館の手伝いをする麻衣さんの仕事ぶりを見てくれていた義父母の期待に応えたいという思いがあった。
「もう一つの決め手は、20代で女将ってカッコいい! と思ったこと(笑)。自分の意志で旅館を変えていけるなんて、滅多にないチャンスですから」
経営危機に陥り、再建が託された宝生亭で帽子山夫妻を迎えたのは、約40人の従業員たち。事業譲渡の条件として、既存スタッフの雇用維持が決められていたのだ。
「私は何も分かっていなかった。自分たちこそ『旅館の救世主』だと思い込んでいましたが、スタッフたちはさめざめと泣き、こちらを睨みつけていました。『この二人は何者だ。何をしに来たんだ』というアウェーな空気は、今でも忘れられません。当時の宝生亭には想像以上の負債があり、『素人がやっても、どうせ潰れる』と噂され、知らない土地で頼れる人もいない。すべてがマイナスからのスタートでした。主人と頭を抱えましたが、まずは一つずつ、この土地と旅館について知ることから始めようと決めました」
麻衣さんは暇さえあれば旅館の周辺を巡り、経理業務をスタッフに教わりながら、労使に関する知識などを独学で勉強した。一通りの業務を覚える頃には、旅館を取り巻く常識に疑問が湧くようになっていた。
「宿もお客さまを選んでいい」大切なお客だけに尽くす
現在、宝生亭の営業方針や接客方針は、旅館業界の中でも常識はずれと言われている。宝生亭が掲げる「旅館もお客さまを選ぶ」という方針も、当時の常識では考えられないことだった。
「ある宴席で『コンパニオンの容姿が気に入らないから替えてくれ』と言われて……。最初は頭を下げていましたが、段々と要求がエスカレートしていきました。あまりの理不尽に耐えきれず、『あんたなんかうちのお客じゃない。今すぐ帰って!』とまくし立てたことがあったんです。
もちろん、『お客さまは神さま』というのは当時も接客業の常識でした。思ったことを口に出しがちな私も、さすがに宴会場から出た瞬間、『大変なことをしてしまった……』と血の気が引き、泣きながら事務所へ戻りました。そこにいた主人に事情を話すと、ひと言、『よかったやん』と言われたんです。
理不尽な方の応対には、誰よりも時間を使う上にスタッフも疲弊します。何より、楽しく過ごしていた他のお客さまの思い出に傷をつける。自分たちの力と時間のすべては、宝生亭を愛してくださる常連さんのために使いたい。その思いが主人に肯定されたようで、救われましたね。お迎えする側だって、お客さまを選んでもいい。その代わり、大事なお客さまに尽くす。そう腹をくくりました」
大切にしたいお客さんは誰か、その人の最高の思い出をどうしたらつくれるかを真剣に考え、確立された宝生亭のスタイル。一見、型破りに思える方針が、長年リピーターを呼び込み続けている。
つながりを深め、より良い時間をつくるための「地元ファースト」
宝生亭が掲げた集客のターゲットは旅館から半径50㎞以内。それは、北陸新幹線が開業し、首都圏と山代温泉とのアクセスが向上しても、変わらない方針だ。
「これまでの温泉旅館は、全国から幅広く集客し、『パーッと飲んで遊んでお金を使ってもらう』という、一見さん重視のところが多かったように思います。わたしたちは、お客さまとのつながりを大切にしようと決めていました。お互いを知り、親しみを感じる関係性を築くには、機会の積み重ねが必要。気軽に来られる距離感なら、何かしら集まりがあるたびに使っていただけるはずと考えました」
中でも、宝生亭は地元の団体客から絶大な支持を受けている。
「団体のお客さまは、言葉を選ばずに言えば『宝の山』状態(笑)。とにかく参加者全員が楽しんでくださるように、皆さんにお酌をしながら挨拶して回ります。そうすると、『今度、こういう集まりがあるんやけど、いいプランある?』などと、関心を寄せてくださる方がいるんです。すかさず、お名前と住所を伺ってコースター裏に書きとめ、すぐに営業担当に連絡してもらっています」
メインターゲットを大胆に絞り込みながら、「この方とは長いお付き合いになる」と直感したら、ぐっと距離を縮める。これが、宝生亭らしい営業方針だ。
リピートへのファーストステップは、全力で楽しんでもらうこと
「家族の笑顔に会える宿」がコンセプトの宝生亭は、家族連れの来訪も多い。家族連れを笑顔にするためには、どれだけ子どもを笑顔にできるかが鍵だという。子どもたちを満開の笑顔にしているサービスが「アヒル風呂」で、貸切露天風呂に200羽ものアヒルのおもちゃを浮かべて遊ぶ時間は、まさに非日常。
「アヒル風呂に入ったお子さんには、帰り際、アヒルのおもちゃを一羽プレゼントしています。毎晩、おうちのお風呂にプカプカ浮かぶアヒルを見ていたら、宝生亭での楽しい時間を思い出して、『次、アヒルの旅館に行くのはいつ?』って、お子さんがご両親にせっついてくれることがあるんですよ。しかも、子どもの頃に楽しい思い出ができた場所って、大人になってもう一度行きたくなる……。プレゼントと言いながら、ズルいでしょう私(笑)」
そう茶化す麻衣さんだが、「アヒルの旅館に行きたい」と子どもにせっつかれた家族は、喜んで宝生亭を再訪するのだ。
「私も4児の母なので、親御さんの気持ちが分かります。子どもと旅行する目的は、突き詰めれば『子どもの喜ぶ顔が見たい』。だから、前と同じ旅館でもリピートしてくださるのだと思います。
「楽しかったな」と思い出してもらうことが、また行こう! につながる
忘れがたい思い出ができる、宝生亭でのひととき。しかし、麻衣さんはそこで手を緩めない。
「全国に素晴らしい旅館はたくさんありますし、思い出していただくって大変なんですよね。アヒルのプレゼントもそうですが、記憶を呼び起こすにはフックが必要です」
そのフックのひとつが、麻衣さん手書きのダイレクトメールやコースターだ。女将になりたての頃から、手書きでのメッセージにはこだわっている。
「今はメールやメッセンジャーでの連絡が当たり前。手書きの価値が自然と上がっている気がします。私自身、『喜んでもらえるかな』とお客さまの顔を思い浮かべながら書くのが楽しいし、ただの紙が、特別なものに変わる。命が吹き込まれるというか……」
団体客を得意とする宝生亭は、コロナ禍で廃業を覚悟するほどの経営危機に陥った。そんな中、常連客とのつながりを支えたのは、やはりDMだったそうだ。
「お客さまに何かあっては大変なので『流行が落ち着いたら、ぜひ来てください。私も人生で初めて休みが取れ、NETFLIXに没頭したりと今までできなかったことを楽しんでいます』としたためました」
文面の明るさが、麻衣さんらしさ。ポジティブなメッセージに笑みがこぼれたのは、私だけではないだろう。
「旅館を心配して、電話やお手紙で連絡をくださるお客さまに励まされました。私が女将になって13年、ピンチのときも変わらず支えてくださったみなさんに恩返ししたいですね」
“いじくらしい”ほどお客さまを構う。それが、宝生亭流。
最後に、宝生亭の今後について伺った。
「今までと変わらず、謙虚な気持ちで、お客さまに楽しい時間を過ごしていただける旅館でありたいです。最近は、チェックインからチェックアウトまでセルフサービスの宿泊施設も増えてきました。効率的なシステムは、お客さまのストレスや手間を減らせるかもしれない。でも、『人を楽しませる、笑顔にする』というかけがえのないプラスを生むサービスは、人にしかできないことだと信じています。宝生亭の生きる道はそこしかない。方言ですが、いじくらしい(しつこい、うるさい)ほど、お客さまのことを構って構って、たくさん笑ってほしい。そのくらいの気持ちでいます」
顔を合わせ、言葉を交わし、「いじくらしい」と笑われるほどお客との関係性を深めてきた。熱烈なファンに支えられ、ここまで来た。「いじくらしい」という言葉に、宝生亭の信念を感じる。取材中も、常連客が通るたびに手を振り、笑顔で挨拶していた麻衣さん。手を振り返すお客さんの笑顔から、宝生亭での楽しいひとときを分けてもらったようだった。
【取材先紹介】
山代温泉 加賀の宿 宝生亭
石川県加賀市山代温泉桔梗丘1-80-1
電話 0761-77-1143
https://www.housyoutei.com/
取材・文/岡島 梓
250名を超える経営層・事業家へのインタビューを行い、その想いや魅力を伝わりやすく再構築。取材を受けてくださった方、言葉に触れてくださった方にとって、何かの「はじまり」になるような表現をしたいと思っています。
撮影/示野友樹(ヒゲ企画)