「本音の宝庫」である個性豊かな手帳や日記、ネタ帳……。個人が所有する極めてパーソナルな手帳を、堂々と読むことができる世にもまれな図書室が存在します。東京都・参宮橋にあるアートギャラリー「ピカレスク」のバックヤードにある「手帳類図書室」は、見知らぬ誰かの手帳を読むことが許された唯一の場所。1時間1,000円の入場料を払えば、約400冊もの手帳の中から興味が引かれたものを心ゆくまで読むことができます。
そんな、縁もゆかりもない他人の人生を追体験できる「手帳類図書室」には、多くの人生のヒントが隠されています。アートギャラリー「ピカレスク」のオーナー・松岡詩美さんにお話を伺いました。
きっかけは人生に迷う中で出合った1冊の哲学書だった
今でこそ、約400冊を展示する「手帳類図書室」ですが、この取り組みはどのような経緯で始まったのでしょうか。
「今展示されている手帳は、すべて手帳コレクターでありゲームクリエイターの志良堂(しらどう)正史さんが収集したものです。牧場勤務からゲーム業界に至るまで数々の現場を渡り歩いていた志良堂さんが、人生の進むべき道に迷った時に、フランス文学者・東宏治の『思考の手帖』を読んで感銘を受けたことが手帳収集のきっかけです。『思考の手帖』は著者の手帖であり、日々の思考の軌跡がそのまま本になったような1冊です。それを読んだとき、瞬間ごとの自分の思考を書き留めていくことにヒントを見つけたそうです。そうして徐々に、一般人の思考も気になったことから手帳収集が始まりました」
以後、1冊1,000円で手帳を売ってくれる人をSNSで募集。クチコミで面白さが広まり、少しずつ収集が進んでいったといいます。現在は蔵書数が増えたため、寄贈形式で収集活動を行っています。
誰にも言えなかった思いを預ける「生きた痕跡を残す」場所
実際に手帳を受け渡した人々は、どのような思いで自分の手帳を託していったのでしょうか。
「お母様の一周忌に、遺品である手帳を持ち込まれた60代の男性の方がいました。その方は独身で子どもがいなかったため、もし自分の身に何かあったときに母の生きた痕跡が処分されてしまうのではないかという思いから、手帳を預けてくれました。遺品整理に限らず、自分の生きた形跡をどこか別の場所に保管しておきたいという方は一定数います。ほかには、性産業に携わっていた女性が結婚を機に手帳を寄贈してくれたこともありましたね。そのように、自身で書いた過去の思考の集積を身近に置いておくのは少し重い。でも、捨ててしまうのはなんだかやるせないという思いからお譲りしてくれる方もいます。『手帳類図書室』では、要望があれば返却するという契約を交わして手帳をお預かりしています。そのため、『いったんここに置いておくか』という感覚で持ち込む方も多いように感じます」
さまざまな思惑で集まってくる手帳たち。読み手である来場者はどのような感想を持つのでしょう。
「来場者にはちょっとしたエンターテインメント性を求めて、来場者同士で和気あいあいと読む方もいれば、自分にとっての何らかのヒントを得るために黙々と読破する方もいます。遠方に住んでいる医師の方が、患者と同じ病を患っている方の手記を読みに来館されたこともありました。実際に患者がどのようなことを考えているのか、手帳から何か知ることができればと思ったと話していました。患者の手記は医学的な知識があるからこそ読み解けますが、英語やカタカナの薬名ばかりで一般人には読み進めることが難しいものでした。このように、業界の差異によってもまた違った没入体験があるのかな、と思います。同じ手帳であっても、読み手側の知識や感性の違いによって、異なる手帳の持ち主の人物像が導き出されるのが面白いところですね」
筆跡、レシート、余白から……手帳にかき立てられる読み手の想像力
読み手によって、それぞれの手帳に対する見方が異なるのも面白いところ。手帳に残された思想のメモはもちろん、無造作に貼られたレシートや旅券、切手などからも想像が膨らみます。
「この場所でしか読むことができないという希少性はもちろん、手書きならではの筆跡や筆圧の違い、走り書きされた謎めいた一言や適当な落書きまで、さまざまな要素が集まってできているのが手帳類の良さだと思います。以前、コレクターの志良堂さんが『余白部分が読めることも面白い』と話していたのが印象的でした。空白のページが続いた後に、唐突にまた書き始められている手帳を見ると、『この期間に筆者はなぜ書かなかったのだろう』と想像することもまた一興とお聞きして、手帳から生まれる想像は無限なんだと感じました」
現代では、SNSで自由気ままに自分の考えや思いを発信することができるため、他者の考えを参考にすることは容易です。しかし、第三者が見ることを前提に投稿されるSNSでは得られない体験が手帳にはあるといいます。
「誰かが読むことを前提としていない言葉が、手帳には書きつづられています。より一層書き手の本質的な部分やドキュメント性が現れるものですし、だからこそ読み手の心に刺さる言葉もあると考えます」
まるで映画を見るように、顔も知らない誰かの人生を追体験
「私自身、所蔵している手帳をまだ全て読むことはできていません。それほど1冊ごとに濃く、筆者それぞれの人生が詰まっているものなのです。自分のペースで見ることができる映画のように、皆さんも誰かの人生をのぞきに来てみてはいかがでしょうか」
肩肘を張らない走り書きにホッとひと息ついたり、鋭いメモにはっとしたり……手帳という丸裸な他人の思考を読むことで、世の中にはさまざまな人間が存在し、考え方も生き方も人それぞれで良いのだと思わされます。
そんな手帳を通して、自分とは異なる価値観を持つ他人の人生を追体験しながら、多様な考え方を吸収することができるはず。その体験は、あなたの人生をより一層豊かにするヒントをくれるのではないでしょうか。
取材先紹介
- 手帳類図書室
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東京都渋谷区代々木4-54-7 アートギャラリー「ピカレスク」内
営業時間: 11:00〜16:00(水~金)、13:00~18:00(土日)
利用料金:1時間1000円 - アートギャラリー 「ピカレスク」
- 取材・文仙波絢香(株式会社 都恋堂)
- 写真西川節子
- 企画編集株式会社 都恋堂