科学の知識や実験器具の機能美をさかなにしてお酒が飲めるというニッチなコンセプトを掲げている「ScienceBar INCUBATOR(サイエンスバー インキュベータ)」。理系文系、老若男女の垣根なしにお客を楽しませるための工夫とは。新宿にほど近い大人の街・荒木町の路地裏で、唯一無二の世界観を生み出すこだわりや仕掛けについて、店主の野村卓史さんに伺いました。
「科学の面白さをより多くの人と共有したい」素朴な思いが開業のきっかけに
――「ScienceBar INCUBATOR」を始めたきっかけを教えてください。
私は元々、生物学の研究畑出身なのですが、大学の研究室や各研究所に勤務する科学者は 外部との交流が少なくなりがちで、すごくもったいないと思っていました。科学者にとって、一般の人との交流は研究内容の意義や社会的なニーズを再認識する機会になりますし、逆に一般の人にとっては、「ワクチンって大丈夫なの?」など、身の回りの科学的な話題について鮮度の高い情報を入手できる場になります。
バーをオープンすることで、両者にとって新たな発見や気づきを得るチャンスになりうると思ったんです。また、個人的に科学を酒のさかなにして楽しめる場所が欲しかったのに、そのようなお店が周囲になかったこともきっかけです。
――研究者から飲食店経営へのキャリアチェンジは怖くなかったですか。
怖かったですよ。それまで飲食店でのアルバイト経験もなかったので。でも、元同業者に先を越されたくなくて、「やってみようかな」と思い立ってから2~3カ月くらいで実際に動き出しました。
――お店の場所を決めた経緯は?
路地裏にあって静かだけど、住宅地ではなく飲食店街にある物件を都内全域で探しました。ある日、「こんな場所でこんなお店を構えたい」と私が思い描いていた通りの場所に出合えたのです。荒木町は古くからの飲食店街ですが、人通りが少なくて落ち着いた雰囲気があるんですよ。周辺に大学や研究機関が点在していることも気に入りました。
――客層としては、どのような方が多いのでしょうか。
荒木町は訪れる人の年齢層が高めで、70代の方でもお酒を楽しんでいる場所です。いわゆる安さがウリの居酒屋やチェーン店が存在しないエリアなので、若い方は少ないですね。そんな土地柄でも、うちのお客さんの層は若い方だと思います。コアな客層は30代ですが、年齢の幅も広く、お酒が飲めるようになったばかりの大学生も来ますし、50代の方もいらっしゃいます。
――リピーターの方も結構いらっしゃるんですか?
もちろんいますが、ほかのお店と比べると遠方から来店する方が多いので、割合としては少ないかもしれません。来店のきっかけは、SNSでの口コミが多いですね。一時期メディア露出が続いたので、その放送や記事を見て来てくださる方もいらっしゃいます。
本物のサイエンス器具が、専門性の高い世界観を生み出す
――お店づくりのこだわりを教えてください。
サイエンス器具はちゃんとしたものを使う、ということですね。例えば、雑貨屋さんでもインテリア用のビーカーなどの商品が販売されていますが、それっぽく見えても、研究者たちが使うようなものではないんです。うちのサイエンス器具はすべて業務用クオリティーのものを置いています。本物の器具に触れたことがないお客さんも多いですし、「本物の器具はインテリア用とどのように違うのか」という話題だけでも結構盛り上がりますよ。
――実験器具の専門店で購入しているのですか?
はい、研究用の備品として売られているものだけです。インテリアとして飾っている顕微鏡も、小学校の理科室で使うレベルではなく研究用レベルのものです。それを使って、一緒に置いている植物や生物の標本を見ることもできますし、見たいものがあったら持ってきていただいても構いません。にごり酒の酵母を見るなんていうのも、おもしろいですよ。
「実験器具でお酒を飲みたい!」シンプルな野望から個性派メニューが誕生
――そもそも、なぜ科学の実験器具を使ってメニューを提供することにしたのでしょうか?
「サイエンスをテーマにしている場なので、やっぱりお酒も実験器具で飲みたいよね」というシンプルな動機からですね。私はかつて研究で日常的にビーカーなどを使っていましたが、この店のように日常生活で楽しむ行為は、近くて遠い遊びだったんです。実際に食べられないものを入れた器具にはお酒を入れたくなかったし、モラル的にも難しいので、そうした遊びは意外とできなかったんですよね。
――絶対に口にしてはいけない化学薬品もあるので、確かにリスク管理は厳しそうですね。
そうなんです。「(実験器具に食品を入れるなんて)何やっているんだ!?」という、上司の目も怖いですしね(笑)。なので、純粋に「やってみたかった」という気持ちからです。研究室では禁じられている行為にチャレンジする背徳感を味わえるようなメニューにしました。ただし、実験器具ありきで無理やりのメニュー化はしたくありません。あくまで「食べてみたい」と思っていただけるものを提供する上で、 飲食の道具として実験器具を選んでいると自然に感じてもらえるようにしています。
“問い”と“答え”を書き込む「ノート」がお客同士のコミュニケーションを活発に
――来店したお客が自由に書き込める「ノート」もあるそうですね?
このノートに質問を書いておくと、次に来店する時までに誰かがその答えを書いてくれるかもしれないというQ&A形式の「研究者に何でも聞いてみるノート」です。
――どのような目的で始めたのでしょうか?
うちに来るお客さんは、科学に詳しい人や科学者との交流を求めて来店する方も多いんです。ただ科学にもいろいろな分野がありますし、その日その時によって客層が変わるので、必ずしもご希望通りの交流ができないことも。そんな時にこのノートを見れば、過去のやりとりから学びを深めることができます。だから、このノートは当店のコンセプトを体現する大切な存在なんです。
――そのノートがお店のコミュニケーションツールとして活躍しているんですね。
面白いのは、一つの質問に対して、いろいろな人が回答していることです。ほんとに自由に使ってもらっているので、中にはまじめな質問もありますが、飲みの席ですからくだらない質問も多いんです。「彼女が敬語を使ってくるのをやめさせるには?」とか(笑)。
――印象的だった質問はなんですか?
2015年頃に、「ノーベル賞受賞者は誰だと思いますか?」の質問に対して、受賞者の発表前に正解を言い当てている書き込みがありました。ほかにも面白い書き込みがたくさんあるので、書籍化したいくらいですね。
夢は「お客さんと論文を書くこと」。唯一無二のコンセプトを味方に、サイエンスバーの挑戦は続く
――2014年の開業から10年、苦労されたこともあったと思いますが、「続けてこられた秘訣」をどう分析されていますか。
科学とバーを組み合わせた店は、都内ではほかに見たことがありません。コンセプトが立てば、サービスや商品も差別化できますし、ほかに選択肢がない店をやるのがいちばんの秘訣だと思います。また、ランニングコストを抑えられる規模で営業しているのも、長く続けられるポイントですね。私のほかにアルバイトが4人だけなので、人件費もそれほどかかりません。このスタイルだと大きくもうけることはできないかもしれませんが、つぶれるリスクは抑えられます。
――お客を途切れさせない秘訣は?
やっぱりSNSでの発信に力を入れることじゃないでしょうか。僕が筆無精でなかなかSNSを更新しないので、最近テコ入れして、専任のアルバイトにXの発信をしてもらうようにしました。まだ1カ月経ったくらいなので、効果を感じるまでには至っていませんが、ゆくゆくは集客ツールとして期待しています。Instagramのアカウントはまだ手薄なので、お客さんにInstagramで拡散していただいていますね。
――お客にSNSで拡散してもらうために工夫していることはありますか?
メニューの提供でデモンストレーションをする時は、写真がきれいに撮れる場所に、お酒や料理を置くように気を付けています。
――集客するために取り組んでいることはありますか?
広告やキャンペーンにコストは割かずに、来店したお客さんに楽しい時間を過ごしていただくことに注力しています。我々のような小規模店では、来ていただいた方の満足度を上げることでファンを増やしていった方が、長期的な集客につながるのではないかと考えているんです。
――これからどんなことに挑戦したいですか?今後の夢を教えてください。
具体的なプロジェクトとして、お客さんと一緒に論文を書きたいんですよ。ここだからこそできるような学術的な研究テーマを設定し、お客さんにご協力いただきながら研究し、論文としてまとめて投稿、もしくは学会で発表したいです。飲み屋のメンツで学会発表って面白そうじゃないですか。以前からやりたいと思いながらできていないので、向こう10年間で実現したいですね!
取材先紹介
- ScienceBar INCUBATOR
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住所:東京都新宿区荒木町7 新駒荘1階
電話:03-5925-8832
HP
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- 取材・文依知川亜希子
- 写真鈴木愛子
- 企画編集株式会社 都恋堂