【商売偉人伝】奴隷に総理大臣に七転び八起き! ポジティブすぎる高橋是清に学ぶ

留学先のアメリカでは奴隷として売り飛ばされたり、放蕩の果てに職を失ったり、さらには鉱山経営に失敗して破産……。しかし、どんな苦境に陥っても悲観せず、七転び八起きで必ず復活したのが高橋是清です。

日銀総裁、大蔵大臣(現在の財務大臣)、そして首相として、国家の命運をかけた戦争の資金調達に奔走し、世界恐慌の荒波から日本を救った偉人・高橋是清のタフな生き方から、商売で成功をつかむための心構えを紹介していきます。

その生涯はまさに“波乱万丈”。どんな苦境も自分の財産に!

高橋是清は、1854(嘉永7)年、江戸・芝露月町(現在の東京都港区新橋4・5丁目)に幕府御用絵師の子として生まれ、仙台藩の高橋家へ養子に出されました。1867(慶応3)年には、その才能が認められて藩の留学生として渡米しますが、奴隷として売られるなど苦労を重ねます。

帰国後は大学南校(現在の東京大学)で英語の教員になるものの、放蕩の果てに失職。以後、さまざまな職業を転々としながら、一時は芸者の付き人に身を落としたり、畜産業や相場、ペルーの鉱山経営に失敗したりと、何度も苦境に陥ります。

しかし、その間には、特許局(現在の特許庁)の初代局長として日本の専売特許制度の立案実施に関わるなど、後の活躍の片りんをのぞかせます。

そして、1892(明治25)年、日本銀行に入行すると、以降、金融業界を舞台に活躍。特に日露戦争が発生した際には、巨額の資金調達に成功し、その後は日銀総裁として日本経済の礎を築き、政界へ活躍の場を移していきます。大蔵大臣としては、昭和恐慌後の景気回復や世界恐慌への対策に力を発揮しましたが、緊縮策を唱えて国防費を削ろうとしたことから軍部と対立。結果、1936(昭和11)年の二・二六事件で暗殺され、その生涯を閉じます。

高橋是清に学ぶ商売の5カ条

【その一】いかなる苦境も悲観するべからず
【その二】いつ来るともわからぬ機会に備えるべし
【その三】日々、人柄を磨くべし
【その四】何ごとにも粘り強く向き合うべし
【その五】利益にとらわれすぎるべからず

【その一】どんな絶望の中にも光を見いだす!

14歳でアメリカに留学した是清。当初はホームステイ先で歓迎されたものの、次第に雲ゆきが怪しくなっていきます。そして、当時は英語もきちんと話せず、なおかつまだ少年であったことから、渡された書類の内容も理解できないままサインをしてしまい、奴隷として売られてしまいます。自分が奴隷になった事実に気づいた後には、なんとか抜け出そうと抵抗しますが、いったん結んでしまった契約を破棄することは容易ではありませんでした。

それでも決してあきらめることなく、当時、江戸幕府からサンフランシスコの名誉領事を嘱託されていた人物を頼ることで、ついに契約を破棄させることに成功しました。ちなみに、是清は自分が奴隷として働かされている事実を知らなかった頃、あれこれコキ使われることを、厳しい勉強だと思っていたそうです。

また、奴隷として働いている事実を知ってからも、英語の会話と読み書きの能力を習得することに力を尽くします。そのおかげで、将来、世界を舞台に活躍することができる、高い英語力を身につけることに成功しました。

どんなに厳しい修業でも、そこには必ず学ぶべきものがあるはずです。いつか過去をふり返った時、その時間には大きな意味があったと感じられるよう、ただ悲観するのではなく、今の状況を前向きに捉えて努力を重ねることが重要だと是清が教えてくれます。状況を打開するため、周囲に相談したり、頼ったりすることも大切なのかもしれません。

【その二】とっさの機転でゼロから利益を生み出す!

是清は留学先の米国からなんとか帰国すると、英語教師としての職を得ます。ところが、茶屋遊びの楽しさを知って以来、放蕩をつくした是清はその職を失い、芸者の送り迎えをする箱屋にまで身を落としました。その後、いったんは文部省(現在の文部科学省)に入ったものの、大酒を飲んで血を吐いたり、乳牛事業や相場に手を出して失敗したりと、低空飛行が続きます。しかし、農商務省(農業や商業に関する政策を管轄する国家行政機関)へ移ると、以前から関心をもって自ら率先して研究を進めていた、専売特許や商標登録制度を整備する分野を担当。外国における制度の調査のため、欧米視察へと向かいます。

この時、米国に滞在した是清は、特許制度に関する資料を米国特許院から手に入れようとしますが、そのためには莫大な金額が必要でした。そのような資金を日本政府が用意できるはずもなく、交渉は頓挫しかけますが、是清の意外な提案が一気に状況を打開します。

是清は、なんと日本ではまだ出版されていない特許に関する資料を、出版したら以後5年間分、米国に送付することを提案。これにより米国特許院の5年分の資料を無料で手に入れることに成功し、日本における特許制度の基礎を築きました。

商売を営む者にとってアイデアや発明は、大切な財産です。こればかりはどんなにお金を積んでも、必ず得られるというものではありません。そのため、日頃からさまざまな情報にアンテナをはりめぐらしたり、新しいことにチャレンジしたりと、アイデアを生み出す努力が必要です。いつくるともわからない機会に備えて、差別化を図ることができる“一番煎じ”のアイデアを蓄えておけば、いざという場面で起死回生の一手につながるかもしれません。

【その三】日ごろの行いがピンチを救う!

36歳の時、人の好い是清は知人からの誘いに応じ、特許局の局長という地位を捨ててペルーで銀鉱石を採掘できるという鉱山経営に人生の夢を託しました。ところが、現地に行ってみると、鉱山はすでに廃坑していることがわかります。その失敗を取り戻そうと、日本の鉱山にも手を出しましたが、さらに失敗。出資したお金をいっさい回収できなかったことはもちろん、借金を返済するために日本にあった家屋敷まですべて売却し、裏通りの借家暮らしをするはめになったのです。

しかし、捨てる神あれば拾う神あり。日ごろから是清は、人に何かを頼まれると、それに応えようと懸命に努力していたことから、財産を失っても誰からも見捨てられることはありませんでした。それどころか、是清の先輩や知人たちは、彼の才能が埋もれることを惜しみ、当時、日本銀行総裁として日本の金融界に君臨していた川田小一郎との面会をセッティング。川田も是清の人間力と才能を高く評価し、日本銀行に入行することになったのです。

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇(かたき)は敵なり」といったのは、戦国武将の武田信玄。そして、信玄の言う通り、どのような仕事でもいちばん大切なのは「人」です。

一人でできることには限界があります。特に商売は人と人のつながりが利益を生むわけですから、たくさんの人と協力することが必須。そして、人を得るために欠かせないのが「人柄」です。日ごろから人から信頼される行動を意識し、自分のまわりに「仇」をつくらない心がけが窮地から救ってくれることを肝に銘じておきたいものです。

【その四】どんな状況でも粘り強さが成功への道!

是清が日銀の副総裁を務めていた頃、日本は大国ロシアと戦争状態に入ろうとしていました。この時、日本が戦争を遂行するための重要課題となったのが、莫大な戦費の調達でした。そして、この難事業を任された是清は、同盟国であるイギリスへと向かいます。

そして、事前に予想されてはいたものの、戦費調達のための戦時外債の公募は困難をきわめました。投資家たちは、兵力差による日本敗北を予想していただけでなく、日本政府の支払い能力や公債引受での軍費提供が中立違反となる懸念をもっていたことから、当初はまったく引受先が見つからなかったのです。

それに対し、是清は一歩もひかず、さまざまな事例を提示しながら投資家たちを説得。粘り強い交渉を続けた結果、まだ開国したばかりで周囲の国々からまるで信用のない日本の国債を売ることにより、500万ポンド(現在に換算して約9億円)という巨額の資金を調達することに成功したのです。

こうした粘り強い交渉こそが是清の真骨頂。この戦費調達の難事業は、司馬遼太郎が記した歴史小説『坂の上の雲』などにも登場し、日露戦争の勝敗を左右した偉業として広く知られています。

【その五】自分の利益にとらわれすぎると大切なものを見失う!

是清は、大蔵大臣を総理大臣との兼任を含め7回務めましたが、3回目に就任したのは、1927(昭和2)年、昭和金融恐慌が発生した時でした。ここで是清は、支払猶予措置(モラトリアム)を行うとともに、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げ、預金者を安心させるといった手段を用いることで、金融危機を42日間で鎮静化させます。

さらに、4回目に就任したのは、1931(昭和6)年に世界恐慌が発生した時です。この時は、金輸出再禁止、日銀引き受けによる政府支出の増額など的確な措置をとることで、世界のどの国よりも早く、デフレから日本経済を脱出させることに成功しています。しかし、是清が実施した政策は、経済が回復した時点でストップしないと悪性のインフレを引き起こす諸刃の刃でした。

そこで、デフレ脱却後はこれを抑制し、日本の財政の信用を守るために国防費すら削ろうとしましたが、予算拡大を求める軍部と対立。是清がひるむことはありませんでしたが、二・二六事件にて陸軍の青年将校らに暗殺され、信念に殉じた83年間の生涯を閉じました。

自らの利益を追求するのではなく、国家と国民の利益のため公平無私で仕事に取り組むことで、結果的に多くの人から信頼を得た是清。その信念を貫いたがために、最後には暗殺されてしまいましたが、彼の業績は今も揺るぎない評価を受け続けています。

現代を生きる私たちも、自分の利益にとらわれることで、本当に大切なものを見失ってしまう時があります。しかし、時には目の前の利益を追わず、お客さまとの信頼を選んだ方が良い時もあるでしょう。是清の生き方を少し見習ってみることで、新しい未来が見えてくるかもしれません。

何事もプラスに捉える視点を!

どんなトラブルや失敗に陥っても絶望することなく、「七転び八起き」をモットーにした高橋是清。いつもポジティブシンキングで、何ごとにも誠実に取り組む公平無私な生き方を貫くことで、多くの人から助けられた是清の姿には、現代に生きる私たちにも通じる学びがあります。そして、失敗した経験を失敗のまま終わらせず、その後の仕事を成功へと導く糧として生かしていく——。そんなピンチをチャンスに変えられる、まさにムダのない是清の人生から、皆さんも自分だけの成功の方程式を模索していってみてはいかがでしょうか。

 

参考資料

高橋是清伝/高橋是清 口述/小学館

東大教授が教える さらに!やばい日本史/本郷和人監修/ダイヤモンド社

高橋是清/リチャード・J.スメサースト著/東洋経済新報社

その時歴史が動いた2/NHK取材班編/KTC中央出版

日本銀行 第7代総裁:高橋是清
https://www.boj.or.jp/about/outline/history/pre_gov/sousai07.htm/

特許庁 初代特許庁長官高橋是清について
https://www.jpo.go.jp/introduction/rekishi/shodai-choukan.html

NPO法人 国際留学生協会/向学新聞
https://www.ifsa.jp/index.php?kiji-sekai-takahasi.htm

明治学院大学 明学について
https://www.meijigakuin.ac.jp/about/why/takahashi/

WEB 歴史街道 高橋是清~国民から愛された「ダルマさん」 波乱の生涯
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4782

スノハラケンジ

日本史を中心とした社会科学から自然科学まで、執筆・インタビューを幅広く手がける。代表作として『なぜエグゼクティブは、アラスカに集まるのか』(幻冬舎メディアコンサルティング)。近年では『古代・平安時代の偉人に聞いてみよう!』(岩崎書店)、『全国 御城印 大図鑑』(宝島社)などの制作に携わる。第3回江戸文化歴史検定受検において1級を取得。

イラスト沼田光太郎

雑誌、広告、ポスター、web、映像媒体でイラストレーション、漫画、アニメーション、を制作。2019年11月 文芸社より絵本「バナナうんち」(原作 はりまりえ/文・絵 ぬまたこうたろう)発売。テーマソング「バナナうんち」作詞・作曲・歌を担当。