愛知県犬山市犬山。国宝の犬山城天守で有名な古風な城下町に、『ナニコレ珍百景』(テレビ朝日系)など、数々のテレビ番組で紹介された珍妙な喫茶店が存在します。その名も「パブレスト百万ドル」。全国からファンが殺到するこのお店には、とてもキャラの濃いマスターがいました。そのマスターに、愛されるお店の秘訣を伺いました。
あまりの人気に休みなしで4カ月営業したことも
このお店の奇抜さを説明するのに、余計な言葉は不要です。まずは、下の写真をご覧ください。
城下町の風景の中でひときわ異彩を放つ喫茶店「パブレスト百万ドル」のマスターを務めるのが、御年80歳、自称“美術アーティスト”の大澤武史さん。
あまりに怪しげな雰囲気で客も寄り付かなかったというこのお店、2013年に『ナニコレ珍百景』に取り上げられたことで人気が爆発。連鎖的にテレビ局の取材が続いたことで客が殺到し、ピーク時には4カ月休みなしで営業したと言います。
「お客さんが全国から来たわけよ、北海道から沖縄の石垣島まで。あんまりにも忙しくて1日に何度仕入れしても、途中で材料がなくなるんや」
マスターが自ら筆をとった珍妙なイラストやメッセージはもちろん、「モーニングサービス」とは名ばかりの、大量に提供される赤字覚悟のフードメニューも話題になりました。
「(以前は一日中モーニングを提供していたが)最近、モーニングは10時から12時にしとるんやけど、お客さんが来ると(モーニングの時間外であっても)ついサービスしたくなってまってよ(笑)、赤字だわ」
最近では、コロナ禍で話は流れてしまったものの、イギリスのテレビ局が10日間連続で撮影をしてドキュメンタリーを制作する企画構想もあったそう。もともと、ごく普通の町の喫茶店だったという「パブレスト百万ドル」が、なぜこのような変貌を遂げたのか、そして、なぜこのような爆発的な人気を獲得したのか。お客さんに愛されるお店になった秘訣を聞くと、大澤さんからは単純明快な答えが返ってきました。
「やっぱり、お客さんを喜ばせることやね」
美術学校進学を親に反対され、飲食の道へ
大澤さんは1941(昭和16)年、木曽川の川べりにある家で真珠湾攻撃の日(12月8日)に生まれました。戦時中だったこともあり、家の裏側にある庭に落ちた爆弾が不発弾で、九死に一生を得たという壮絶なエピソードも披露してくれました。
「その爆弾が爆発しとったら、今ここでインタビューできなんだわ(笑)」
実家が大衆食堂を営んでいたそうで、子どもの頃から店の手伝いをして、飲食店のイロハを覚えました。
「(小学生だった自分が)料理を運んでいくと、お客さんがお駄賃くれたわね。お客さんを大事にするということは、親から学んだね」
しかし、若き日の大澤青年が志したのは飲食の道ではなく、「芸術」の道でした。
「絵はよ、子どもの頃に写生大会で賞を取ったりしたもんで。学校の先生も、美術の先生も褒めてくれたもんで、俺も絵の学校行きたいなと思って、親に言ったんだ。そしたら、そんな絵の学校行ったって飯は食っていけない、ダメだ、言うわけ」
夢破れた大澤さんは、1967(昭和42)年、25歳で現在の場所に喫茶店を構えました。当時は周辺に喫茶店も少なく、オープン初日から地元のお客さんが殺到。好奇心に満ちたお客さんたちの視線が一斉にカウンターの中にいる大澤さんに注がれ、その時の心境を「まるで舞台に立っているような気分だった」と回想します。
芸術の道を諦め、やや不本意ながらはじめた飲食業ですが、大澤さんはここで天賦の才能を発揮します。当時、目新しかったジュークボックスを導入したところ好評を博し、高校生のたまり場として繁盛。喫茶店の人気が陰りを見せると和洋レストランに転身し、木曽川で捕まえた天然のウナギを名物とするお店に方向転換しました。儲けに儲け、40歳の頃には国道沿いに土地を買い、ピザやスパゲティー、ステーキを提供するレストランをオープン。翌年には「パブが儲かる」という話を聞きつけ、和洋レストランをパブへと改装しました。それからは、パブやレストランの良さも残しつつ、徐々にまた喫茶店のような現在の営業スタイルに変化していきました。このような、時々で業態を変える柔軟さが、お客さんを呼び寄せ続けた一つの要因なのかもしれません。
「バブルやったもんで、ものすごい儲かった。当時、リトルワールド(犬山市にある、1983年オープンの民族学博物館)のサーカスに出演していた外国人が、夜になったらパブに来るわけよ。いつだったか、スペイン人が来てよ、トランペット4本くらい持ってきて、パパパーっと吹いてよ、(お祭り騒ぎで)ものすごい景気良かったわ。面白かったな、その当時」
財布には常に50万円ほどの現金を収めていたそうですが、50万円丸ごと財布を落としても、お金がいくらでも入ってくるので、あまり気にしなかったと大澤さんは言います。
最愛の人との別れが、再び筆をとるきっかけに
いまはパブというよりも、喫茶店として愛されているこのお店が、現在のようにエキセントリックなアートに覆われるようになったきっかけが、パブを始めてから二人三脚でお店を支えてきた「純子さん」なる人物との別れ。22年間連れ添い、事実婚ながら一人の男の子にも恵まれたそうですが、とある事情から、大澤さん62歳のときに、純子さんがお子さんを連れて失踪します。
「純子と別れてから、もう生活がむちゃくちゃになったわけよ。昼間はパチンコ、夜はフィリピンクラブに行って。自宅も売ってまって、全財産使い果たしちゃったわけよ」
荒れ果てた末、最後に行き着いたのが若い頃に諦めた「絵」でした。
「自分には絵しかないと思ったんだわ。ほんでベニヤ板によ、子どもの絵を試行錯誤で1枚描いたらよ、意外に描けたんやわ。それから、パーっと子どもの絵を(立て続けに)4枚描いた。子どもとは7歳の頃に生き別れになったんやけど、とにかく絵を描いとったときには、子どもが近くにおるような気がして、ものすごく幸せな気分になったんやわ。もう頭がおかしくなる寸前やったけど、絵を描くようになってからは正常に戻った」
大澤さんは、人に頼まれて絵を描くことはせず、あくまで自分の思うままに絵を描きたいと語ります。サービス精神にあふれながらも、この点だけは譲れないようですが、自分のために描いた絵がきっかけで、結果的にはメディアにも取り上げられ、日本中からファンが集まる喫茶店へと成長しました。
お客さんから言われた言葉「マスターは店で死んでくれ」
現在はコロナ禍で客足は落ち着いているものの、パブレスト百万ドルを取材した番組の再放送が繰り返されたことで、お店の認知度はますます高まっているそうです。体力的なことも考えると、コロナ明けにお客さんが殺到したら対応できるか、それが心配の種だと大澤さんは打ち明けます。
「でも、(お店を)閉めるとお客さんと話せなくなるから、寂しいもんでよ。それにお客さんと話すと、頭の回転が速くなるんやわ。一時、店を閉めたときにボケてしまったことがあって。だからよ、閉めることはできんのや。お客さん言うんだわ、マスターは店で死んでくれって(笑)。店の中で往生しろ言うんや」
大澤さんがお客さんを求めるように、お客さんもまた、「パブレスト百万ドル」の存在を求めています。
「お客さん来るとよ、悩み事持ってくるわけよ。誰でも悩みはあるはずやわ。そうすると俺がくだらない話とかをして、わーって笑って、楽しんで帰っていくわけ。お客さんから送られてきた手紙とかを見るとよ、『ここに来て心が晴れました。マスターみたいに楽しくやらないかんということがわかりました。私も頑張ります』と書いてあるんよ」
自身の半生を語る大澤さんの語りの中には、UFOを目撃した話、店を訪れた不思議な女性の話、夢の中で龍から神託があった話など、奇想天外なエピソードが時折転がり込んできます。その語り口も、決してオカルトめいたものではなく、祖父母から昔話を読み聞かせされているような、楽しくて懐かしい雰囲気に満ちています。
「喫茶店」という名の、体を張った一人の人間の大舞台
「パブレスト百万ドル」というお店は、まさに大澤さんの人生の舞台。お店をオープンしてカウンターに入ったとき、まるで舞台に立っているような気分だったと語っていたのが象徴的でしたが、この地にお店を構えてから、大澤さんはステージからずっとお客さんを楽しませようと奮闘してきたのでしょう。実際、わずか90分ほどの滞在でしたが、ここで書ききれなかったユニークなエピソードもたくさんあり、まるで3時間の大長編映画を鑑賞しているかのような気分でした。
時代の流れやご自身の環境の変化によってお店の形態は変えながらも、変わらずに貫かれていたのは「お客さんを喜ばせたい」という思い。注目されるきっかけとなったのはテレビでしたが、「パブレスト百万ドル」がこれだけ深くお客さんから愛されるお店になったのは、大澤さんのあふれるサービス精神あってこそなのではないでしょうか。
取材先紹介
- パブレスト100万ドル
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愛知県犬山市犬山瑞泉寺31-1
電話:0568-62-3336
- 取材・文小野和哉
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1985年、千葉県生まれ。フリーランスのライター/編集者。盆踊りやお祭りなどの郷土芸能が大好きで、全国各地をフィールドワークして飛び回っている。有名観光スポットよりも、地域の味わい深いお店や銭湯に引かれて入ってしまうタイプ。
note: https://note.com/kazuono - 写真西川節子
- 企画編集株式会社 都恋堂