1人と1匹。腎不全の猫と共に店を営むということ

東急田園都市線駒沢大学駅から、歩いて2分の場所にある居酒屋「SUIREN」。店主・古舘(中村)篤史さんと茶トラの猫・トムが働いています。

トムは生後まもなく、瀕死の状態で古舘さんに拾われ一命を取り留めた猫で、生まれつき腎臓に疾患を持っています。

古舘さんはトムと出会った翌日から、トムを連れて店に出勤しています。以来、今年(2023年)で7年。その間、店はどのように変化していったのか、1人と1匹で共に店を営むことについて話を伺いました。

思わぬめぐり合わせと、瀕死の猫との出会い

話は、トムと出会った2016年8月25日の数日前にさかのぼります。雨が降っていたその日、店の前の駒沢通りでいつも見かける野良猫が、車にひかれて死んでしまった瞬間を目撃した古舘さん。すぐに区役所に連絡し、暫定の処置を聞いて段ボール箱にタオルを入れ、亡きがらを安置したそうです。

そして、その日から数日経った8月25日。古舘さんは仕事帰りに、駐車場でまたも小さくうずくまる生き物を発見し、「またひかれてしまった猫か」と思ったそうです。

「近寄ると本当に小さな子猫で、かすかに息をしているものの、すでに手遅れだと思いました。処置の方法は先日聞いたばかりだったので、近くの店で段ボールをもらい、ものすごく汚れていたけど、自分の服で包んでやって。先日のこともあり、このまま死なせてしまうのはあまりにもかわいそうだと思い、せめてきれいにしてやろうと病院へ連れて行ったんです」

「SUIREN」のInstagramに投稿された、交通事故に遭って間もない子猫。左側に強い衝撃を受けていたことがわかる

すると、子猫は動物病院で息を吹き返し「ぎゃー!」と大きく鳴きました。その様子を見て獣医は、古舘さんに究極の選択を突きつけます。

「『この先、責任を持って育てられるなら連れて帰ってください。でも、育てられないのなら、このまま病院の下に置いていってください。それがこの子の運命なので』って。医者なのにそんなこと言うのかよ、と思いました。もともと動物は好きだけど、一度も飼ったことはないし、当時住んでいた下宿も動物はNG。どうしようかと悩み、せめて引き取り手が見つかるまでうちで飼えないか、大家さんと交渉することにしたんです」

「猫を飼いたい」という言葉だけを聞いた大家さんは当然NGを出しましたが、古舘さんから経緯を聞き、子猫の姿を見せると「しょうがない」と了承。古舘さんは子猫を『トム』と名付け、共同生活が始まりました。

名前の由来は『トム・ソーヤの冒険』から。わんぱくで元気に育ってほしいという願いを込めた

猫を看病し育てる? 営業はどうする? 手探りで懸命にトムを守る日々

事故による損傷から、なかなか心拍数が安定しないトム。いつ体調が急変するかわからない状態だったため、古舘さんは翌日から経営していた店舗に連れてきて、常連さんたちに助けてもらいながら付きっきりで看病し、営業を続けました。

店主の古舘(中村)篤史さん。昔から動物は好きだったが犬や猫はおろか、金魚すら一度も飼ったことはなかったという。近年結婚したが、決め手となったのは奥さんのトムへのやさしさだったそう

それでも事故から3カ月が過ぎ、徐々に回復してきたトム。ただ、そろそろ成猫として去勢しなければならない時期のはずが、まだまだ小さく子猫のよう。そこで、再度検査したところ、トムの腎臓の一つが異常に小さく、機能していないことが判明したのです。

トムの腎臓について記された獣医の所見。古舘さんは血液検査の結果表など、トムに関する獣医の記録はすべて保管している

事故の怪我から回復しても、古舘さんは変わらずトムの看護と介護の日々。脱水症状を起こさないよう毎日2回皮下点滴を行い、下剤を飲ませ、定期的な通院や血液検査も受けさせています。餌は腎臓病用のキャットフードを与え、常に見守りながら、少しでも異変があれば病院へ駆け込む。もちろん、すべて店を経営しながら……。

店内には、トムの闘病資金を援助する「トム募金」の貯金箱もある。「おつりをそのまま『トムのために』と言ってくださる人、Instagramを見てお金を送ってくださった人もいます。うちに来るお客さんだけではなく、本当にいろいろな人にトムは大事にしてもらっています」と古舘さん

そのため、トムの世話に積極的に参加してくれる常連さんも多く、古舘さんが手を離せないときは常連さんが代わりにケアを行ってくれました。時にはトムを連れて近所へ散歩に行ったり、古舘さんが独身の頃は、1泊2日でトムを預かってくれた常連さんもいたそうです。一方、トムが店にやって来たこと、トム中心の店になったことで離れていったお客さんがいたのも確か。

「トムが来たのは店を始めて8年目の頃。そもそも、猫カフェのような動物ありきの店ではなく、普通の居酒屋でした。だから、トムを連れて来たらお客さんは減るだろうなと思いましたし、それならそれでいいやって。

腎臓にも障害があって、クルマにひかれて瀕死の状態でも懸命に生きようとしていたんですよ。そこで、俺と出会った。それこそがトムの運命であり、助かる命だったんです。もしかすると、すぐに死んでしまうかもしれない。でも、トムが生きようと頑張っていることに、助けた俺は応えてあげないと」

外に出ても勝手に走って逃げたりしない

離れたお客さんもいれば、新たに常連になったお客さんもいます。中には、トムと触れ合って猫のかわいらしさに目覚め、自分でも猫を飼うことにした結果、引っ越しをして店から足が遠のいたお客さんもいるそう。

「メディアなどにも取り上げてもらって、トム目当てで来てくれるお客さんも多いです。ただ、そうしたお客さんは、あくまでトム目当てなので、そこまでたくさん飲んだり食べたりはしません。だから、トムが来る前後では、明らかに来る前の方が売り上げは安定していましたね」

そんなシビアな話をしていても、どこか穏やかな古舘さん。古舘さんにとって、トムが何よりも最優先なのです。

いつしか“トムありき”の居酒屋に変化

トムが店に来たことで、店内も一部改装。コンクリートの床の一部にジョイントマットが敷かれ、営業中も必ずどこかの席が空けられています。それは、以前カウンターから直接コンクリート床に飛び降りたトムの足が腫れ上がってしまったから。そこで、足に負担がかからないクッション性のある道を造り、いったん席に降りてから床に降りられるように2段階のルートにしました。ただ、トムが降りたがっていると、大抵、常連さんが降ろしてあげています。

トムはお客さんのドリンクや料理が並んでいるカウンターも器用に歩くので、カウンターの上をトムが歩きだすと、常連さんは少しでも歩きやすいようにスペースを空けます。このカウンターを歩く様子がかわいらしく、猫好きの人にはたまらない様子。SNSなどでもよく投稿されています。

トムが歩き出したら、常連客はすぐに道を空け、すぐさま「トムロード」ができる

「トムは賢い猫でね、絶対にお客さんの料理に手を出さないし、むやみにひっくり返したりもしない。だから、いろいろなお客さんに愛されるんでしょうね。急にトムの調子が悪くなり、表に『病院に行ってきます』と張り紙をしたら、後から『大丈夫だった?』『トム君を優先してあげて』と声をかけてくれるので、ありがたいですね。

でも、トムも苦手なお客さんがいるんです。猫がいることを知らずに来たお客さんで、猫に抵抗がなく、興味津々でトムをなでまくる人がいますが、そういう人からはすぐに逃げますね」

トムがいると常連客同士もすぐに仲良くなってしまう。古舘さんが忙しくて手が回らないときは、トムの面倒だけでなく、お客さん自らがドリンクを用意したり、皿洗いなども率先して行ったりするという

トム目当てで来るなら「かわいい、かわいい」となでたり、抱っこしたりする人も多いだろうと思いきや、トムの事情を知っているからこそ、節度をもってトムをかわいがる人が多いそうです。また、1人でゆっくり飲んでいるお客さんには、トムはそろりと近づいて、前の席に座ったりすることも。自分の役割をしっかりわかっているようです。

トムはみんなのアイドル。右の女性はスマホの待ち受けもトム。トムの写真でフォルダがいっぱい

トム一色の日々の中、“これから”について思うこと

猫好きのお客さんの来店はあるものの、純粋に居酒屋としても人気の「スイレン」。鶏料理を得意とし、家庭で出てくるような味わいの料理を提供しています。しかし、古舘さんは店の経営に関してはどこか達観していて、「常連さんやトムに会いに来るお客さんはとても大切だが、店そのものには執着がない」と言います。

(左)「ハイボール」480円、「梅つくね(なんこつ入)」690円。おでんはこの日のお通し。(右)「オムライス(本当においしい)」1,100円は人気メニュー

「この先も、トムにはこのままでいてほしいと思います。正直、トムの病気がもっと悪くなるかもしれない。今までも『もうだめか』という状態を何度も繰り返しながら、頑張って生きてきました。だからこそ、自分も頑張れる。だって、医者から『4歳まで生きられるかどうか』って言われていたんですよ。それが、今年で7歳を迎える。だから、これからも俺に迷惑をかけていいから、今のままでいてほしいんです」

最近、トムのために「高濃度酸素カプセル」を自宅に導入。毛並みも良くなり、筋肉も柔らかくなったという

出会うべくして出会った古舘さんとトム。商売では「お客さまファースト」と言われることがありますが、この店では「トムファースト」。古舘さんは常連さんに支えられながら、強い絆と意思、そして、覚悟をもって今日も営業しています。

取材先紹介

取材・文別役 ちひろ

コピーライター、ライター、編集者。東京生まれ。まち歩きフリーペーパー制作に長年携わる。旅や食、建築にまつわる執筆が多く、銭湯のフリーペーパーで10年以上執筆している。特にキリスト教会の建築・美術の愛好家で、25都道府県・約850軒の教会を訪ね歩いている。

写真新谷敏司
企画編集株式会社 都恋堂