洋の東西を問わず、幅広い国々の料理が味わえる都市・東京。中でも、おそらくここでしか出合えないシリア料理を提供する店が、国際色豊かな街・広尾の『アラビアレストラン ゼノビア』です。
歴史の教科書では目にしたことがあっても、多くの日本人にとってはなじみの薄いシリアの郷土料理を求めて、遠く大阪や沖縄から足を運ぶ顧客もいるのだとか。
はるばるシリアから日本に渡り、この地にしっかりと根を下ろしたのは、オーナーであるアルク―ド・イブラヒムさん。文化も食習慣も違う日本で、自国料理のレストランを経営することの大変さや醍醐味について話を伺いました。
日本への興味のきっかけは、シリアで見ていたアニメ
各国の大使館が集中し、外国人の姿も数多く見られる広尾。人々が行き交い、活気あふれる広尾散歩通りに面したビルの看板に『アラビアレストラン ゼノビア』の文字。階段を降りると、そこにはアラビアンナイトの物語を彷彿とさせる異空間が広がっています。
迎えてくれるスタッフはすべてシリア人。来店している客にも、さまざまな国の人が見受けられます。日本にいながら異国の街にたたずむような錯覚を起こしそうになるのは、広尾という土地柄からくるのかもしれません。
今から約20年前に、シリアから日本に移り住んだイブラヒムさん。来日のきっかけは? と尋ねると、よく覚えていないと笑いながらも、
「日本の文化には興味がありました。シリアでは、TVで見られるアニメのほとんどが日本製。子どもの頃は毎日のように見ていましたからね」
『アルプスの少女ハイジ』『UFOロボ グレンダイザー』『名犬ジョリィ』『キャプテン翼』『サスケ』、イブラヒムさんの口からは、次々と懐かしいアニメのタイトルが飛び出します。
「ドラマの『おしん』もすごい人気でしたよ。夕方に放映されるんですけど、その時間になると街を歩いている人は誰もいなくなる(笑)。そういったものに触れているうちに、日本がどんどん好きになっていって――」
日本という国を自分の目で見てみたいという思いが強まり、現地の大学を卒業した後、名古屋で会社経営をしていたシリア人の友人を頼って、来日したといいます。
「来日後は友人の仕事を手伝っていました。でも、その2年後に友人がシリアに帰ってしまうことになり、ほかに知り合いのいない名古屋にいるより、前から住みたかった東京へ移ったんです」
2002年に上京したイブラヒムさんが目指したのは、飲食業でした。
「飲食をやろうと思ったのは、料理することが好きだったから。シリアでは早くに亡くなった両親に代わって育ててくれた祖母を助けるため、料理、洗濯、掃除、なんでもやりました。歴史の深いシリアでは、野菜の栽培が盛んだったのでみんな自分の畑を持っています。そこで無農薬の野菜を作るんです。パセリやズッキーニ、きゅうり……、それに小麦も。その小麦を家で粉にして、パンを焼いたりもします。子どもの頃から身に着けてきた得意のシリア料理を、日本でも広めたいと思いました」
ケバブ屋台がレストラン経営への足掛かりに
飲食業をスタートするための糸口としてイブラヒムさんが選んだのが、ケバブの屋台販売でした。
「当時はまだケバブ屋が少なかったから、友人がチャンスだと始めたのを手伝っていました。渋谷で2年ほど屋台営業した後、2004年には池袋のロサ会館にテイクアウトのケバブ店を出し、実店舗での経験を積みました」
上京時にはあいさつ程度しか話せなかった日本語も、仕事上で必要に迫られ、独学で習得。店舗オーナーを目指し日々仕事に励み、開業資金が溜まった2006年には、満を持してシリア料理のレストランをオープン。場所は、ロサ会館から徒歩数分の地にしました。
開業にあたっては、不動産屋との契約や保健所への申請など、いくつものハードルをクリアする必要がありました。
「書類を揃えるのは正直大変でしたが、シリア人の友人に助けてもらったりして何とかクリアしました。日本では書類をちゃんと提出すれば、確実に開業できます。ほかの国では、書類に対して理不尽な文句を言われ、その度にテーブルの下からそっとお金を渡す——なんてことが当たり前のようにあります。その点、日本の方がずっとやりやすかったですね」
慣れ親しんだ池袋で、故郷シリアの料理を提供し始めたイブラヒムさんですが、オープン当初は、シリア料理に慣れていない日本人に向けて、味や食材を変えていたといいます。
「例えば、カプサ(ピラフ)を作るときも、日本のお米を使っていました。そのほうが、日本人には食べやすいと思ったんです。でも、ある時、お客さんから怒られました。『日本の米で作るなら家でもできるし、コンビニでも買える。そうではなくて、“本物”のカプサを食べるためにわざわざここに来てるんだよ』と。“似ている”料理を出すくらいなら店を閉めたほうがいいとまで言われて、ハッと気が付いたんです」
それからは、あえて日本人の味覚に合わせるのではなく、本場のシリア料理だけを提供することを心がけるように。
「本物のシリア料理が好きな人はきっと食べに来てくれるし、好きじゃない人は食べに来なくてもいいと、気持ちを入れ替えました。それに、その頃はSNSがまだ広まっていなかったから、ほとんどがお店のホームページを見て来てくれたお客さんたち。Web上の感想や口コミが広まり、遠方からのお客さんも日増しに増えていきました」
来店した人々が書いてくれたコメントや口コミでの評価は、お店の認知度を上げるのに役に立ったと振り返ります。
熱烈なシリア料理ファンの勧めで、港区への出店を決意
池袋のレストランに足繁く通う常連客の中には、広尾や麻布十番にある大使館関係者も多く、港区への出店を勧められたことをきっかけに2015年、店名を「ゼノビア」とし、現在の地で新たにオープンすることを決意。
土地柄、家賃の相場も高い広尾において、地下にあるこの店舗は、1階の路面店より費用を安く抑えられたと言います。
開店にあたっては、内装を含むすべてをイブラヒムさんがデザインしました。壁にはアラベスク文様やアラビアの古語などを配し、店内にディスプレーされる小物類もシリア、エジプト、モロッコといった国から自らインポートしたそうです。耳に心地よいアラビア音楽とも相まって、異国情緒に浸れるレストランは、ランチでもディナーでも、客足の途絶えないお店になりました。
繁盛の秘訣は? とストレートに聞いてみると、
「素材にも味にも、とてもこだわっています。例えば、肉。ここでは、ハラル食品(イスラム法で食べることを許可されている食品)だけを使って調理していますが、ハラル対応の日本産牛肉は、冷凍でしか手に入りません。日本産以外のハラルビーフは生でもありますが、どんなに手をかけても、美味しさでは日本の生牛肉にかなわないんです。ですから、お店では牛肉を出しません。ハラルのマトンも生と冷凍のものがありますが、どんなに高くても、生が手に入るときは生肉を、それが難しいときはできるだけおいしい冷凍のハラルマトンを探してます」
シリア料理は、香辛料をあまり使わず、素材の持ち味を生かすのが特長なので、野菜やオリーブオイルなども品質のいいものだけを吟味して使っているのだそう。
「シリア料理でよく使われるヨーグルトソースやザクロソースは、一から手作りしています。手に入りにくいということもあるけれど、代わりのものを使うと、味に影響するんですよ」
本物のシリア料理を出すためには、手間暇を惜しまない。素材にも調理法にも、細部まで気を配って作られたシリア料理は、クセがなく、体にも優しいヘルシーさで女性にも好まれています。
「こだわりを持って本物の味を再現することと、正直に商売をすること。日本でレストランを営業するときに大切なのは、その2点だと強く信じています」
気が付いたら、日本人以上に日本になじんでいた⁉︎
「実は、ここをオープンする前の2012年に、体を壊してサウジアラビアに移ったことがあるんです。もう日本には戻らないつもりで、療養後サウジアラビアからトルコに移動してレストランを開いたんですけど、半年で閉店しました。約束や時間を守らない、ラフな国民性に嫌気がさしちゃって……」
いつの間にか、イブラヒムさんの中身は、すっかり日本人になっていたと笑います。
「私は営業時間もしっかり守っています。遠くから来てくれるお客さんがいますから、来た時に閉まっていたらがっかりでしょ? 同じ理由で、定休日も設けません」
再び日本に来て、広尾のゼノビアをオープンして以来、1日も休んでいないという驚きの事実に、日本人以上に勤勉なイブラヒムさんの仕事に対する熱意が表れています。
顧客との接し方にも、国による違いはあるのか聞いてみました。
「特に変わりはないですね。基本はフレンドリーですが、仕事の会食だったら奥の座敷にお通しして、なるべく雑音を控えるくらい。スタッフの中には日本語があまり得意ではない者もいるので、英語でコミュニケーションを取ることもありますね」
「そうそう、すべてアラビア語でオーダーしようとする日本人のお客さまが時々いるんですけど、混んでいて時間がないときは『はい、〇〇ですね』って私が日本語で答えるの(笑)。その方が早いからね。それと、日本人の中には、おしぼりが出てくるまで料理に手を付けない方がいますよね。この“おしぼり”習慣は、世界でも日本だけだと思う。接客での違いがあるとしたら、それくらいかな」
ゼノビアの好調を受けて、2018年に麻布十番のカフェ「ファヌース」、2021年1月には中野サンモールに支店「ゼノビア東京」をオープンさせたイブラヒムさんに、今後のビジョンを聞いてみました。
「いま、お店では7種類くらいのシリア菓子を出していますが、本当はもっとたくさんの種類があるんです。だから、今後は小さな菓子工場を作って、そこで製造するいろいろなシリア菓子をハラルフードのお店や、スーパーマーケットに卸していきたいと計画しています。だいぶ準備も進んでいるので、場所が決まったら稼働させたい。もっと多くの人に、シリアのおいしい食べ物を知ってほしいです」
メソポタミアという悠久の文化を持つシリアから、アニメという現代の文化に惹かれて来日したイブラヒムさん。後に続く出店希望の外国人たちの先達として、そしてシリアの食文化普及の担い手として、今後の展開に目が離せないところ。
【取材先紹介】
アラビアレストラン ゼノビア
東京都渋谷区広尾5-2-25 本国ビルB1
電話 03-5420-3533
http://www.zenobia-ib.com/
取材・文/八尋みくり
神奈川県在住のフリーライター。広告代理店でコピーライターとして勤務した後、独立。美容、料理、食品、健康、ペット、家事・育児、電化製品、教育など、暮らしを取り巻くさまざまなジャンルでの取材・ライティング、広告制作を手がける。
撮影/新谷敏司
画像提供/PIXTA(ピクスタ)