コッペパンにひなあられがぎゅうぎゅう詰めになったもの、日本そばにわかめ、天かす、ネギまでトッピングされたコッペパン……。埼玉県行田市にあるベーカリー「翠玉堂(すいぎょくどう)」で季節商品として毎月考案される総菜パンには、思わず「まさか!」と言いたくなる、ギャグのようなパンがちらほら。
店内には不思議な張り紙がいくつもあり、店の奥の壁には「眠い・ダルい・帰りたい」と書かれた社訓が飾られています。ユニークなパンと張り紙がテレビ番組でも度々取り上げられ、SNSでも話題になりましたが、グルメサイトでは「おいしい」と評価される店。そんな店の主・平川真之さんはどんな人なのか――店を訪れました。
「パン屋をやりたかったわけじゃない。分からなかったから……こうなった」
バス通りに面する翠玉堂は古民家風のたたずまい。しかし、扉には「こたつで寝落ち」「お風呂で寝落ち」「携帯で寝落ちからの顔にアザ」といった謎の張り紙が……。
店内に入り、向かって右の商品棚には、食パンやバゲット、総菜パンなどが並びます。パンはハードパンが多く、平川さん手書きのメニュー表には、「帰りたい」などの言葉とともに、商品棚のどの位置に何のパンが置かれているかが示されています。他にも、南部小麦などの原材料名、「基本卵は使っていません」という注意書きも目に入ります。やる気がないように見える反面、強いこだわりとまじめな姿勢がうかがえます。平川さんの真意とは。
「そもそもパン店をやるつもりはなくて、なりゆきです。以前は園芸農家で働いていましたが、手足のしびれが止まらなくなり、3カ月ほど自宅で休養していました。回復して働き先を探そうと、個人経営のパン店と新しくできるパン店に立て続けに面接へ行ったのですが、どちらも落ちてしまって。パン店の面接に続けて落ちたことが悔しくて意固地になり、“三度目の正直”でスーパー内のインストアベーカリーの面接を受けて採用されました。
そこでは『窯前(かままえ)』と呼ばれるオーブン前で働いていましたが、ある日、それまで何も考えずにできていたクープ(フランスパンなどに入れる切り込み)が、焼いても開かなくなったんです。その理由が分からなくてパン作りの本を1冊買い、それでも分からないからもう1冊本を買い……、と分からないことを追求していたら、いつの間にかここまで来ていました。たぶん、最初の個人経営のパン店で採用されていたら、ここまで追求することはなかったと思います」
当時は自宅にオーブンを買い、休日も家でパンを焼く日々が続いたそうです。パンへの探究心があふれたからこそ、自分の店を持ちたいと独立を考えたのか……?平川さんに尋ねると、さらに真面目な回答が返ってきました。
「勤めたスーパーが世間的に信用度の高い企業で、『このスーパーだから買いに来る』というお客さんが多かったんです。そんなスーパーに入っているパン店なのに、現場レベルでは小麦の産地も分からず、お客さんから聞かれた時に答えられなかった。そのことにとても気持ち悪さを覚えて、だったら自分で原材料もちゃんと把握したいと思ったんです」
平川さんはその後、店を退職し、東京・町田のパン教室でパン作りを本格的に学び始めます。そんなある日の学校帰り、その日焼いたパンを入れた車の扉を開けた時に、パンのいい香りが漂ってきたそう。
「それまでパン教室で使っていた『南部小麦』という小麦粉にあまり注目はしていなかったのですが、その時は小麦のとても良い香りがして……。この小麦を使って自分が焼きたいパンを焼く店をやろうと思ったんです。当時は2007年、30歳だったんですけど、3年やってつぶれてもまだ33歳。まあ、なんとかなるかな、って軽い気持ちでした」
社訓「眠い・ダルい・帰りたい」。総じて「働きたくない」の真意
パンに対する並々ならぬこだわりと探究心を持って翠玉堂を開店した平川さん。それゆえ、ますます社訓の意図が図りかねます。なぜ「眠い・ダルい・帰りたい」を社訓に掲げているのでしょうか?
「『眠い、ダルい、帰りたい』って、つまり働きたくないってことだけど、それは『これ以上、働きたくない』って意味です。働くことは嫌いじゃないけど、分からないことはとことん追求するし、素材や調理工程など、商品は納得できるものを作りたいと思う。そういう突き詰めてしまう性格だから、これ以上、自分の手間を増やしたくないんです。例えば、カレーパンを作るとなると、世の中にこれだけカレーやカレーパンがあるのに、うちのカレーパンだけに合うカレーを求めて一から仕込むでしょう。その工程がもういっぱいいっぱいで、考えるだけでイヤなんです」
商品棚にはパンの他にジャムも置かれ、総菜パンに挟む鶏ハムなどもすべて平川さん一人で作っています。こだわりが強いからこそ、今以上に手を掛けることは平川さんのキャパシティーを超えてしまう。その表現として、ひねくれつつも素直な文言で「働きたくない」と公言しているのです。
味ではなく、「挟む」を目的にした奇抜なコッペパン
翠玉堂がSNSで話題になったきっかけといえば、いろいろな具材を挟んだコッペパン。一体このコッペパンはどんなきっかけで始まったのでしょうか。
「うちは祝日関係なく木曜から日曜まで開店し、月曜から水曜までが定休日です。そのため正月休みは設けていないんです。正月にパンを買いに来る人なんていないって思っていたんですけど、買いに来てくれる人がいて……。その人たちのために、コッペパンにタマゴサラダなどを詰めて売っていたんです。その中の一つとして、せっかくだからおもしろい物をと、おせち料理を8種類ほど詰め込んだ『おせちパン』を作ったんです。それが、うちのコッペパンの始まりですね」
それ以降、季節やイベントごとに、シーズナルの“何か”をコッペパンに挟むようになりました。「液体はゼラチンで固めればいいと覚えた」と、成人式の日にはジントニックやワインをゼリー状にしたものを挟んだりしています。
「ルールは一つ。コッペパンに挟む、ただそれだけ。味見はするけれど、味の良し悪しは考えていません。いつもコッペパンを買いに来る猛者のようなお客さんがいるんですけど、お客さんの反応が薄いとこっちも闘争心がメラメラするんですよ。やっぱり『え!こんなもの挟んだの?』って驚いてくれたり、明らかに困っているような顔を見たりするのがおもしろいじゃないですか」
近年ではシーズナルのコッペパンは「もう出し尽くしてしまった」とのことで、ご当地の名物など地域性を取り入れた具材を挟むことを考えているそうです。
人間は嫌いだけど、パンを介して人と関わる
翠玉堂の様子を見ていると、お客が来ると平川さんは必ずメニュー表を渡し、商品の配置を簡単に口頭で説明します。また常連客がやってくると、「えっ、誰が食べるの?」「固いよ、うちのパン」などと軽口をたたき合いながら、お客の求めるパンを案内します。
「店を始めた頃は、自分が作りたいハードパンしか作らなかったんです。接客も、別にうちの店で買わなくてもいいし、という態度を取っていた。でも、近所のおばあちゃんがうちに来て『食べられるものがないのよね』って言った時、『あぁ、近所の人が来てくれないとうちはつぶれちゃうし、お客さんが食べたいパンも作らなきゃ』って思ったんです。そこから少し柔らかいパンや、アンパンなんかも作るようになりました」
圧倒的な個性とパンへの強いこだわりは変わらないが、お客との関係性を重視するようになったと話す平川さん。今、平川さんにとってパンは「人と関わるためのツール」だと話します。
「本来、僕は人と関わることは嫌いなんです。面倒くさいし、『知るか!』って思うこともよくあるし。でも結局、人間一人では生きていけないし、人が大切だ、と思うようになりました。だって、この人生、自分が知ることができるのってごくわずかじゃないですか。その辺に歩いているおじいちゃん・おばあちゃんでも、よくよく話を聞いてみたら、とてつもない経験をしているかもしれない。そういう話を聞きたいし、いろいろな人と関わりたい。そのためのコミュニケーションツールとして、今はパンを作っているように思います」
自分の探求心を満たす対象としてパンを見ていた平川さんだが、年月を経て、人のためにパンを焼くようになり、今はそのパンから次のつながりを生み出そうとしています。自分が楽しい・おもしろいと思う気持ちを大事にして、それと同じだけパンと人を大切にする。そんな思いを平川さんの横顔に見ました。
取材先紹介
- 翠玉堂
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埼玉県行田市行田5-7
電話048-556-2640
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- 取材・文別役 ちひろ
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コピーライター、ライター、編集者。東京生まれ。まち歩き系のフリーペーパー制作に長年携わる。旅や食、建築にまつわる執筆が多く、銭湯のフリーペーパーで10年以上執筆している。特にキリスト教会の建築・美術の愛好家で、26都道府県・約950軒の教会を訪ね歩いている。
Instagram: https://www.instagram.com/c.betchaku/ - 写真新谷敏司
- 企画編集株式会社 都恋堂