【商売偉人伝】ピストルを懐に忍ばせ「九転十起生」。女傑・広岡浅子に学ぶ!

商家のお嬢様というレールの上を歩くのなんて、まっぴらごめん——。「女子に学問は不要」とされた時代、強い決意と抜群の行動力で商売を学び、嫁ぎ先の危機を救ったことをきっかけに実業家の道を歩むようになったのが、NHKの連続テレビ小説「あさが来た」のヒロインのモデルにもなった、広岡浅子です。男性優位の社会に決して屈することなく、時には懐にピストルを忍ばせ、炭鉱経営、銀行設立、生命保険会社の創業など、新しいビジネスに果敢に挑戦。さらに、新時代に輝く女性たちを育成すべく女子大学の創立にも力を注ぎました。明治時代を代表する“女傑”の生涯から、固定観念にとらわれない商売との向き合い方を紐解いていきます。

型破りな行動で、女性が輝く未来を切り開いた異色の実業家

広岡浅子は、嘉永2(1849)年、京都油之小路出水にて、出水三井家(後の小石川三井家)6代三井高益の4女として生まれました。

おてんばな少女時代を過ごした浅子は、学問にも興味を持ちましたが、その頃はまだ「女子に学問は不要」とされた時代。家族の大反対に遭い、13歳のときには両親から読書を禁じられてしまいます。

しかし、17歳のとき、大坂の豪商・加島屋の当主である8代広岡久右衛門正饒の次男、信五郎の元に嫁ぐと、理解ある夫の元、本格的に商売を学びはじめました。そして、結婚から3年後、諸藩を主な取引先としていた加島屋は明治維新をきっかけに大きく衰退しますが、浅子はこれまで学んできた知識を発揮して経営に参画。その立て直しに成功したことから、周囲の人たちから「加島屋唯一の君主」として認められるようになっていきます。

以降、実業界に身を投じた浅子は、炭鉱経営での成功をきっかけに、実業家として一躍有名になります。さらに、明治21(1888)年には加島銀行を設立。同35(1902)年には大同生命の創業に参加するなど、その事業手腕を発揮しました。

また、晩年には女子教育や婦人運動にも情熱を注ぎます。明治34(1901)年には、各界の有力者に働き掛けることで、日本で最初の女子大学となる日本女子大学の創設を支援。明治37(1904)年、夫の信五郎が亡くなったことを機に経営の一線から身を退いてからも、若い女性を対象とする勉強会を主催し、翻訳家・作家として『赤毛のアン』など多くの作品を生んだ村岡花子、女性参政権獲得運動に生涯をささげた市川房枝など、多くの逸材を輩出しました。その後も大正8(1919)年に没するまで、日本YWCA中央委員を務めたほか、「九転十起生」のペンネームで執筆活動を続けたことでも知られています。

広岡浅子に学ぶ商売の4カ条

【その一】リスクへの意識を高めるべし
【その二】粘り強さが挑戦成功のカギと心得るべし
【その三】年齢や性別のみで人を判断すべからず
【その四】利他の心を常に持つべし

【その一】常に危機感を持って物事に臨むことが重要

浅子が16歳のとき、彼女の実家の近くで「禁門の変」が起こります。京都での地位を失った長州藩が、勢力回復のために会津・薩摩などの藩兵と激しく戦った結果、近隣の町屋の多くが焼失しました。この様子を目の当たりにした浅子は、どんなに大きな商家であっても、永久に家業が繁盛するものではない、常に油断してはいけないと考えるようになります。

その後、豪商・加島屋の分家に嫁ぎますが、夫の広岡信五郎は8歳年上にもかかわらず、まるで家業に関心がなく、三味線や茶の湯などもっぱら趣味に明け暮れるばかり。隣にある本家でも、徒歩で歩ける距離でも輿に乗り、外出の際には振袖で着飾る……。そんな贅沢ぶりや、のんびりとした商売を行う加島屋の行く末に、浅子は当然ながら危機感を持ちました。

そこで浅子は、妻の行動には常に寛容であった夫の理解もあって、実家では固く禁じられていた学問を再開。何かあったときには自分が家業を担っていこうと、懸命に商売を学びはじめます。

実際、諸藩を主な取引先としていた加島屋の経営は、大政奉還をきっかけに大きく傾きました。大名への貸し金総額900万両(現在の4500億円相当)も無にするところでしたが、浅子の生まれもった度胸と行動力で諸藩に出向き返済を迫ったり、学んだ知識を生かして事業に積極的に関与して経営の再建に成功したのです。

商売が順調でも、時代やニーズの変化、また昨今のコロナ禍のような想定外のリスクをきっかけとした周囲の状況の変化によって、瞬く間に危機にさらされることがあります。世の中、一寸先は闇。過度な安定に身を置くことなく、守るもの・変えるものを常に見極める視点を大事にしながら、いつか訪れるかもしれない危機を想定して準備を進めておくと良いかもしれません。

【その二】一度心に決めた挑戦を簡単に諦めてはならない

加島屋の再建に成功した浅子は、業務改革の一環として新事業の開拓を進めます。これからの日本には米よりも石炭が重要になるという考えから、福岡県飯塚市にあった潤野炭鉱を購入し、炭鉱経営という新しい商売に乗り出します。ところが、明治14(1881)年からはじまった松方財政(松方デフレ)をきっかけに、石炭の供給が需要を上まわり価格が暴落。加えて、新たに掘り進めた坑道が大きな断層に突き当ったことで掘削をストップせざるを得なくなり、ついに休鉱を余儀なくされます。

このとき、多くの人たちは炭鉱経営の失敗を指摘しましたが、浅子だけが「周囲の炭鉱が産出しているのに、ここだけ出ないという道理はない」と諦める様子も見せません。当時は女性が炭鉱を経営した例がなく、女性が行く場所とも考えられていませんでしたが、浅子はそうした常識にとらわれず、自ら鉱山に乗り込むと、採掘を陣頭で指揮。どこで手に入れたのか、護身用のピストルを懐に忍ばせながら、荒くれ者ばかりの炭鉱労働者たちを叱咤激励したといいます。

すると明治30(1897)年、新しい石炭の鉱脈が見つかり、炭鉱の産出量は急増します。ついに浅子の狙い通り、潤野炭鉱は優良炭鉱へと生まれ変わったのです。

何かを成し遂げるためには、新しい挑戦を恐れてはいけないということ。そして万が一、見切りを付ける場合にも、決して周囲の声に流されることなく判断することが大切だと浅子は教えてくれます。また、本当に成し遂げたいことは、誰かに丸投げすることなく自らが参画することが大切なのかもしれません。

【その三】人の能力は年齢や性別で決められないものである

銀行の設立や生命保険事業への進出など、実業家として大いに活躍した浅子。その考え方は「老といい、壮と称するは、腕と力と人格によって之を定むるの外はない。老者必ずしも老朽たらず、壮者必ずしも有能の材たらず、青年必ずしも人格者たらざるのである」という彼女が残した言葉の通り、人は年齢によってではなく、能力によって判断されるべきと考えていました。

例えば、当時は「女性は数字に弱い」という固定観念から、女性を銀行員に採用しようとする銀行が見られませんでしたが、浅子が立ち上げた加島銀行では積極的に女性を雇用しました。雇い入れた女性行員を自らが鍛え上げ、一人前の銀行員に育て上げたといいます。

また、「女子に学問は不要」と読書を禁じられた十代の頃から、「女子にも男子と同じ教育を受けさせるべき」と浅子は感じていました。男女は能力や度胸においては格別の違いはないという信念のもと、政財界の有力者に女子大学の必要性を説いてまわり、日本で最初の女子大学となる日本女子大学校の創設を支援しました。

男性優位の社会のなかで苦労を重ねることも多かったという浅子も「精神力が身体を支配する」というポリシーを胸に、新しいプロジェクトに次々と取り組んでいきました。何をするにしても大事なのは信念。まわりの雑音に惑わされず少しずつ前進していけば、同じ思いを持った協力者が現れて助け船を出してくれるかもしれません。

【その四】利益の追求ばかりでなく、社会への責任を果たすことも重要である

日本女子大学校の設立運動に尽力した当時、浅子は実業家として最も多忙な時期を過ごしていました。そして、経営が悪化していた浄土真宗の関係企業である真宗生命から支援要請を受け、同社の経営権を受け継いだのもちょうどその頃です。当時の日本では、生命保険への考え方がまだ幼稚で、「保険に入れば早死にする」という迷信さえ信じられていた時代でした。

経営難に加え、そうした社会の障壁が存在するなかで、浅子はなぜあえて火中の栗を拾おうとしたのか……。浅子には、将来的に保険事業が発達して利益を生むという確信があったようです。一方で、社会を救済し、人々の生活を安定させるという生命保険にポテンシャルを感じていました。商売を通じて社会の幸福を増進できるならと、この新規事業に乗り出す決意をしたといわれています。

このように浅子が手がけた生命保険事業は「朝日生命」(注:現在の朝日生命とは異なる)へ改称、護国生命・北海生命との三社合併を経て、現在の大同生命保険株式会社へとつながっていきます。

物事を見るときには迷信や風評にとらわれるのではなく、「原理原則」を考える視点が重要。インターネットやSNSが発展した現代においては、そうした落とし穴に陥りがちですが、正しい情報かどうかを考える視点を忘れずにいたいものです。また、「小我を捨て、大我を得よ」をモットーとした浅子の生き方は、人のため社会のために何かを成し遂げようという社会的使命感があってこそ、いきいきと活躍でき、それが商売繁盛につながることを教えてくれます。

固定観念に縛られず、より良い未来を切り開く!

「九度転んでも十度起き上がれば、前の九度の転倒は消滅して、最後の勝利を得る」という考えのもと、近代日本における女性実業家の先駆けとして、明治・大正時代を駆け抜けた広岡浅子。

そうした「九転十起生」の生き方はもちろん、「すべての人に健康と福祉を」「質の高い教育をみんなに」「ジェンダー平等を実現しよう」「人や国の不平等をなくそう」といったような、現代で言うところのSDGs(持続可能な開発目標)を取り込んだ先進的な経営方針には、大いに学ぶところがあります。

固定観念に縛られることなく、より良い商売と社会を実現するため、常に挑戦し続けた浅子の生涯には、現代に生きる私たちが改めて考えてみるべき大事なことが多いのではないでしょうか。

参考資料

広岡浅子語録/菊地秀一 著/宝島社

広岡浅子の生涯/宝島社

広岡浅子/小前亮 著/星海社

広岡浅子/『歴史読本』編集部 編/KADOKAWA

大同生命保険株式会社 大同生命の源流
https://kajimaya-asako.daido-life.co.jp/

スノハラケンジ

日本史を中心とした社会科学から自然科学まで、執筆・インタビューを幅広く手がける。代表作として『なぜエグゼクティブは、アラスカに集まるのか』(幻冬舎メディアコンサルティング)。近年では『古代・平安時代の偉人に聞いてみよう!』(岩崎書店)、『全国 御城印 大図鑑』(宝島社)などの制作に携わる。第3回江戸文化歴史検定受検において1級を取得。

イラスト沼田光太郎

雑誌、広告、ポスター、web、映像媒体でイラストレーション、漫画、アニメーション、を制作。2019年11月 文芸社より絵本「バナナうんち」(原作 はりまりえ/文・絵 ぬまたこうたろう)発売。テーマソング「バナナうんち」作詞・作曲・歌を担当。

企画編集株式会社 都恋堂